以後五月までの間、数回にわたって会議を重ねるとともに、村内において部落座談会を開催して住民の意見を求め、また関係町村と個別あるいは合同して懇談を続けたが、結論を見ることはできなかった。
その後、県は第一次試案に検討を加えた結果、同二十九年五月二日町村合併計画を確定し、各町村長宛本計画に基づき町村合併を促進するよう通達を発したのであった。それによると、本村は箒川東部の大字薄葉・平沢・上石上・下石上の区域は大田原町ほか八か町村に、西部の大字豊田・成田・沢の区域は矢板町ほか二か村に合併する計画であった。
この案に対し同二十九年十一月三十日の県議会において、小平知事は議員の質問に対し次のとおり答弁している。
「箒川を境界として北は大田原、南は矢板町、こうなっているのであります。これは大分議論がありましたけれども、地勢上から見て、誰が考えても常識的にいって、今まであの大きな箒川を挾んでおったということは町村運営上不便があったのであります。従来の慣例からいきまして一つの村だったから、どこまでも一緒に行きたいのは人情である。この点同情します。しかし百年の大計を考えれば、こうした感情は一擲すべきでありまして、当然野崎村のときも、今度は県の案に賛成だといって実は参っております。北は大田原に南は矢板町に合併する。こういうことになっているのでありまして、順次啓もうによって、地方民の意志が将来のことを考えればそういう方面に行くのではないかと考えております。」
(「栃木県町村合併誌」第三巻上)
この分村合併については、村内においても種々意見がたたかわされたが、全般の意向を検討した結果、九月二十日の合併促進協議会全体会議において、県の計画に沿って合併を促進することを決定したのである。
この決定に基づき十二月一日すでに合併市制を施行した大田原市とは十二月十六日、また同様矢板町とは十二月十九日それぞれ合併促進協議会を設置して協議を行い、十二月二十日議会は合併を議決、同十二月三十一日それぞれの市町に編入合併をすることを決定したのである。
野崎村の一部大田原市へ編入の議決書
(昭和29年12月20日)
この間町議会においては①県の町村合併第一次試案、②佐久山地区ブロックとの合併、③矢板町との合併等、種々の意見が出されたが、部落座談会の状況、合併促進協議会の決定等、村民の意向をとり入れて慎重審議を重ねた結果、県の合併計画どおり大田原市及び矢板町に分村合併することを決定議決したものである。