湯津上村は県の合併計画による小川町との合併については、全村民がこれに反対するとともに、大田原市合併派と小川町、大田原市、黒羽町への三分村合併派とが、激しく争って容易に結論が出ず、昭和二十九年十月二十八日、ようやく全村大田原市合併試案を決議して、再三にわたり村長及び議長がその受入れについて陳情するところであったが、大田原市としては合併市制施行以来日も浅く、かつ県計画との相違もあり、村内の状況も考えて合併については即時に結論を出すことはなかったのである。
湯津上村ではその後、議員請求の臨時村議会において、同三十一年十一月二十三日、前議決をくつがえして三分村合併の議決を行ったが、この議決をめぐって村内はますます混乱していったのであった。
この間に三年の時限立法である「町村合併促進法」は、同三十一年九月末日をもって失効し、新たに「新市町村建設促進法」が施行された。この間、こうした村内の状況を慎重に調査を行っていた県は、合併審議会の意見をきき、同三十一年十二月二十七日、佐良土区域を小川町へ、蛭田・蛭畑・片府田及び新宿区域を大田原市へ、また狭原・小船渡及び湯津上の区域を黒羽町への三分村合併とし、小川町との合併計画を変更し、知事勧告を行ったのである。
しかし、村長は村議会の決議や県の勧告があっても、三分村の決議を執行する意志のないことを大田原市へ回答したので、大田原市としても湯津上村のこうした情勢を慎重に検討した結果、執行機関と議決機関とが一体となっての申し入れであれば、全村なると三分村なるとを問わず、受け入れの手続きをするとの態度を決定したのである。
その後同三十二年三月二十七日議員提案により、さきの議会による三分村合併の議決を取消し、同時に知事の三分村合併の勧告も拒否、全村大田原市合併を議決して大田原市にその受入れ方を申請してきたのである。
大田原市はさきの決定に基づき、これを受けて四月十五日全村受入れを議決し、五月八日湯津上村とともに県に対し合併処分方を申請したが知事はこれを拒否したのであった。