振興計画策定の目的
昭和二十九年十二月一日合併市制施行以来、建設計画に定められた事業を積極的に実施し施設の充実と相俟って逐次都市としての発展強化を図ってきた大田原市は、同四十年には県の指導のもとに「大田原市振興計画」(基本計画として四十一年―五十年)(実施計画として四十一年―四十五年)を策定し、特に産業振興(農業振興と工業開発)と基礎的条件の整備(道路、橋渠等の土木事業)に重点をおいて鋭意県北における中心都市として建設を図ってきたのである。
しかし、わが国の高度経済社会への移行とともに、栃木県も首都圏域の中で新たなる発展的段階を迎え、かつこれに対応するために、同四十四年に「県勢発展長期計画」を策定し、七十年代を迎える新しい県勢創造の体制を固めることになった。本市にとっても首都圏整備法に基づく都市開発区域の指定、野崎地区の工業開発、米生産総合改善パイロット事業の指定による農業振興策、大規模農道整備事業、あるいは行政の広域化、東北縦貫自動車道および東北新幹線の建設等、本市をとりまく内外の社会情勢は急速に転移し、本市の立地条件においても益々新たなる発展要素を加えられることになった。このような本市をとりまく諸情勢の変化に的確に対応し、本市のもつ開発発展のエネルギーを最も効果的に市行政に生かすために、長期的かつ総合的な視野にたって市の進むべき基本方向と実現すべき目標を掲げ市民の総力を結集して、均衡と調和のとれた秩序ある市政の発展を図るために、新しく振興計画が策定されたのである。
振興計画に基づく大田原市の未来像
県北の文化経済行政の中心都市として発展してきた本市ではあるが、豊かな農村を主体としたいわゆる農村都市としての行政は、昭和二十九年十二月一日市制施行以来同四十年まで続けられてきた。たまたま同四十一年通産省東京通産局によって、野崎工業団地造成調査が行われるとともに、本市も工業開発へ積極的に取り組むことになり、県も本市の工場適地に注目するに至ったのである。
同四十三年には栃木県開発公社の進出によって、野崎工業団地一〇六ヘクタールの買収開始、市もこれに全力を結集してあっせんにつとめ、同四十四年全面買収を完了し、現在、開発公社が造成計画にあわせて大企業の誘致策を図っており、本市工業開発の将来を明るくしている。
また、同四十年六月に大田原市・西那須野町・塩原町の三市町で結成した「県北広域都市計画協議会」(同四十三年六月、県北広域都市開発懇談会と改称)において「広域都市計画」を策定するとともに、地域開発の一体化と強力な推進を図るため、首都圏整備法に基づく都市開発区域の指定を県および首都圏整備委員会に陳情してきたのである。この結果は同四十五年五月二十五日「大田原地区都市開発区域」として指定をみるに至ったが、この指定の要素は「工業開発」と「那須新都市建設」の二つの柱である。この「工業開発」要素は本市野崎地区の買収済一〇六ヘクタールの実績と更に周辺の一一〇ヘクタールの工業団地開発推進を意味することは、現在策定中の「大田原地区都市開発整備計画」の内容で明らかである。また、この「都市開発区域」の指定によって新都市計画法が適用されることになり、計画的な市街地づくりのための「市街化区域」と将来とも市街化を抑制する「市街化調整区域」を区画することにより、県北の中核都市としてこの街づくりが強力に推進されることになるのである。
一方、県下一の米生産をあげている本市農業は、県および市の振興策とあいまって同四十三年まで伸びに伸びてきたが、国の米生産調整政策によって一時混迷の危機に陥ったが、同四十三年に指定された米生産総合改善パイロット事業により、生産団地の指定、土地基盤整備事業の推進等農業近代化への逞しい歩みに踏みきり、首都圏食糧供給基地としての地位を確保する体勢にある。更に同四十五年度に指定をうけた大規模農道整備事業は、本市農業振興地域を循環する産業道路として、これが竣工予定の同四十九年以降の本市農業基盤を、不動のものとすることになるわけである。
こうした農業近代化への諸施策とあいまって、工業開発による首都圏最北端の中核都市としての背景は、農・工両全の調和ある町づくりの発展要素を十二分にもっており、その未来像は輝かしいものがあるといえよう。
しかし、わが国の高度経済社会への移行とともに、栃木県も首都圏域の中で新たなる発展的段階を迎え、かつこれに対応するために、同四十四年に「県勢発展長期計画」を策定し、七十年代を迎える新しい県勢創造の体制を固めることになった。本市にとっても首都圏整備法に基づく都市開発区域の指定、野崎地区の工業開発、米生産総合改善パイロット事業の指定による農業振興策、大規模農道整備事業、あるいは行政の広域化、東北縦貫自動車道および東北新幹線の建設等、本市をとりまく内外の社会情勢は急速に転移し、本市の立地条件においても益々新たなる発展要素を加えられることになった。このような本市をとりまく諸情勢の変化に的確に対応し、本市のもつ開発発展のエネルギーを最も効果的に市行政に生かすために、長期的かつ総合的な視野にたって市の進むべき基本方向と実現すべき目標を掲げ市民の総力を結集して、均衡と調和のとれた秩序ある市政の発展を図るために、新しく振興計画が策定されたのである。
振興計画に基づく大田原市の未来像
県北の文化経済行政の中心都市として発展してきた本市ではあるが、豊かな農村を主体としたいわゆる農村都市としての行政は、昭和二十九年十二月一日市制施行以来同四十年まで続けられてきた。たまたま同四十一年通産省東京通産局によって、野崎工業団地造成調査が行われるとともに、本市も工業開発へ積極的に取り組むことになり、県も本市の工場適地に注目するに至ったのである。
同四十三年には栃木県開発公社の進出によって、野崎工業団地一〇六ヘクタールの買収開始、市もこれに全力を結集してあっせんにつとめ、同四十四年全面買収を完了し、現在、開発公社が造成計画にあわせて大企業の誘致策を図っており、本市工業開発の将来を明るくしている。
また、同四十年六月に大田原市・西那須野町・塩原町の三市町で結成した「県北広域都市計画協議会」(同四十三年六月、県北広域都市開発懇談会と改称)において「広域都市計画」を策定するとともに、地域開発の一体化と強力な推進を図るため、首都圏整備法に基づく都市開発区域の指定を県および首都圏整備委員会に陳情してきたのである。この結果は同四十五年五月二十五日「大田原地区都市開発区域」として指定をみるに至ったが、この指定の要素は「工業開発」と「那須新都市建設」の二つの柱である。この「工業開発」要素は本市野崎地区の買収済一〇六ヘクタールの実績と更に周辺の一一〇ヘクタールの工業団地開発推進を意味することは、現在策定中の「大田原地区都市開発整備計画」の内容で明らかである。また、この「都市開発区域」の指定によって新都市計画法が適用されることになり、計画的な市街地づくりのための「市街化区域」と将来とも市街化を抑制する「市街化調整区域」を区画することにより、県北の中核都市としてこの街づくりが強力に推進されることになるのである。
一方、県下一の米生産をあげている本市農業は、県および市の振興策とあいまって同四十三年まで伸びに伸びてきたが、国の米生産調整政策によって一時混迷の危機に陥ったが、同四十三年に指定された米生産総合改善パイロット事業により、生産団地の指定、土地基盤整備事業の推進等農業近代化への逞しい歩みに踏みきり、首都圏食糧供給基地としての地位を確保する体勢にある。更に同四十五年度に指定をうけた大規模農道整備事業は、本市農業振興地域を循環する産業道路として、これが竣工予定の同四十九年以降の本市農業基盤を、不動のものとすることになるわけである。
こうした農業近代化への諸施策とあいまって、工業開発による首都圏最北端の中核都市としての背景は、農・工両全の調和ある町づくりの発展要素を十二分にもっており、その未来像は輝かしいものがあるといえよう。
(「大田原市振興計画」)