勧農と自営農民

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明治十年(一八七七)代に進んだ農村の分解は、ことばを換えると中農層の没落であると見られるから、中農層は努力して自己の所有する山林を開拓して耕地とするか、他人の所有する耕地を購入して耕地をふやさない限り、耕地面積が小さいため、自然災害やその他の災いでも起こると、自己の所有する耕地を手放し、没落しなければならない状況にあったのである。そのため、農家はより多くの耕地を持とうとして努力し、耕地の中でも有利な水田を開こうとしたのである。したがって明治二十年代は用水路の開削による開田化の進んだ時期となってゆくのである。例えば、宇田川水路等は次のようにして開削されたのである。
 
大字宇田川ノ地蛇尾川沿岸ニアリト雖モ其水面ヨリ高キコト数拾間ナレバ田圃ニ灌漑ニ不足ヲ来シ為メニ美田ヲ耕作スルヲ得ザルノ憾アリ、ココニ於テ里人藤田利平、伊藤又治、室井滝一郎、室井儀三郎、伊藤熊治ノ数氏率先シテ水路開鑿ノ必要ヲ説キ計画ヲ案ジ遂ニ衆ノ賛スル所トナリテ明治二十七年十月工ヲ起シ水源ヲ遠ク大田原町地蔵山ニ求メ蜒々タル水路ヲ字内中央ニ拓クコト一五百余間ノ長キニ渉リ人夫四千余人工費壱千余円ヲ投ヂテ明治三十四年ヲ以テ竣工セリ、今ヤ灌漑水滾々トシテ堀ニ満チ荒地ハ変ジテ美田トナリ良圃ト化スルニ至レリ

(「親園村郷土誌」親園小学校所蔵)

 このようにして耕地は次第に増加し、明治二十六年に一、九九一町歩(一、九九一ヘクタール)であった大田原地方の水田は、同三十三年には二、三九七町歩(二、三九七ヘクタール)にまで増加したのであった。
 一方、村の勧業委員をとおして農産品の改良普及がはかられていくのである。
 
     勧業
実施ニ於テハ役場ニ於テ紫雲英ノ種子ヲ有志ノ需メニ応ジ買入シ配分セシモノ三石余、又樹苗ニハ八木沢鬼子次郎、稲作ニハ伊藤良作、麦作ニハ八木沢清一郎、煙草苗ニハ杉江初太郎等尽力シ、其成績上観ルベキアルモ、其他ハ勧業トシテ評スベキモノナシ

(佐久山・第四四)

 このようにして、明治中期は耕地の拡張と生産力の向上に努力した自営農民の活躍した時期であったのである。こうした生産力の向上のために行われたものに、種苗等の交換があり、例をあげると、第2表のようなものが大田原地方の優良種であったようである。
第2表 栃木県著名種苗表
(明治二七年一月三一日)
作物品種特色適土数量価格所有者扱い所
粳米早稲早熟良質葉茎中短芒淡赤色中粒美味収穫多ク被害ナシ砂土一舛一舛四銭大字大神 八木沢喜作佐久山町役場
清水坊中、良、白黄色粒大味美収穫多風雨水旱ニ耐ュ壚土一石時価大字花園 小林菊衛親園村役場
風シラズ晩最良、粒小味美収穫多芒無風シラズノ這方特性壌土大字実取 森与一
信州無芒早稲茎短収穫多量乾田ニ適ス腐殖土三舛三合一舛四銭大字北金丸 星野宏金田村役場
八束穂無芒中熟品質可収穫多量乾田ニ適ス二升同四銭同人
大麦ゴールデンメロン中佳良粒大味美芒長収多風早ニ耐ユ軽鬆五斗時価大字実取 森与一親園村役場
小麦ワセアカ早、良、粒中、芒短味美収穫普通水田ニモ作ニ適ス同人
カルフオルニア有芒晩茎長シ粒肥大腐殖土五合一升七銭大字北金丸 星野宏金田村役場
糊芋早、良、粒大、収多ク味美澱粉ニ富メリ砂壌土二斗時価大字花園 小林菊衛親園村役場