小作農と地主

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明治後期から大正時代にかけては、小作農と地主の対立が激しくなっていったようである。明治三十五年(一九〇二)九月二十八日の台風は、足尾台風といわれ、日光の神橋が流失するなど県下に甚大な被害をもたらした。南金丸の那須神社では大鳥居が倒壊し、佐久山町では三一六町歩(三一六ヘクタール)の水稲が被害をうけた。このような被害は農家の生活をどん底につき落してしまい、中農層の没落をうながすのである。金に困った農家が町の商人などから農地を質に金を借り、遂には農地を手ばなさなければならなくなって、自作兼小作農などに転落していったのである。
 明治四十年代に入ると親園村では一七〇余町歩(一七〇余ヘクタール)の耕地が他町村の人手に渡って、小作米は二、二〇〇俵余(一三二トン)が村外に流出しているのである。そして村内の富豪は農地を買い戻すなどの努力をしなければならない状況になっており、貧しい農民は少しでも金になる炭焼き、林業労働、夜なべ仕事などの副業によって生活を支えるほかなかったのである。
 一方、村の上層富裕農は、農地所有の増大とともにみずからは耕作をしない地主となっていき、上層富裕農と地主は、消費市場向け商品を有利に販売すべく、地主会を結成していくのである。明治四十二年(一九〇九)那須郡地主会ができると、翌四十三年には親園村地主会、野崎村地主会、佐久山町地主会がつくられたのである。金田村では少し遅れて、大正三年(一九一四)に金田村地主会がつくられた。
 これら地主会は、小作人に対し、小作奨励米を交付するなどして良質の米を生産させ、米の検査をして優良米を米穀市場に出荷する方法をとり、収入を増大させるという地主的経営を行ったのである(第3表)。
第3表 小作米奨励米交付額調査表
(明治四四年)
派出所区分交付セザルモノ(石)一石ニ付キ平均(合)小作人員
一升まで二升まで三升まで五升まで
大田原町小作料額七九七〇四七八三四八一七八
奨励米額三、三五二三、三五二
親園村小作料額六九一、三九〇一、四五九四五二五四
奨励米額六、六一三六、六一三
野崎村一三九二七一二八三六九九二〇一八六
五四二八四九一、三九七
佐久山町五二二一四四九八七六四一〇一三三
三三二四六一七九三
金田村五二九一、七〇九一、七三二三、九七〇三四五六六
五、一二七八、二四二一三、三六九
一、三三八二七一二、一三六三、九二四七、六七五三三一、三一七
五四二六、三〇八一八、六六八二五、五二四
(佐久山・第二二五)

 第一次世界大戦は好況のうちに終ったが、大正九年(一九二〇)戦後恐慌が起こると、農村には小作料の減額を要求する小作争議が起こるのであるが、大田原地方でも例外は免れなかったようである。
 
   親園小作問題――地主も反抗
那須郡親園村小作人が本年の不作を理由に三割引を地主に要求し地主小作人睨み合うて居ることは既報した通りであるが、その後小作人等は極力三割引主張の貫徹を企て小作人組合を組織すべく百余名之に調印し去る十八日親園村尋常高等小学校に総会を開いて三割引要求を決議し、爾来十数人宛数隊に分れ各地主を訪問し強硬な割引談判を開始し共有地の如き特殊小作地は其の目的を達したが、個人小作地は地主も反抗的態度で本年割引要求に加はった小作人に対して明年よりは絶対小作せしめぬと云ふ條件を持ち出し反対に地主側が優勢の状態で相互盛んに示威運動を取り、小作人等は小作料を支払はんともせず日夜狂奔して居るが、地主等も年末予算の小作料が少しも納入にならないので番狂ひで閉口して居る。亦地主側は親園小学校講堂を貸与したを難詰して近く何等かの方法を講ずると意気巻いて居る等形勢が悪化して来た。

(「下野新聞」大正一〇年一二月二七日付)

 このほか、金田村でも小作料の一割減額をめぐって争議が生じたことや、野崎村でも小作人組合がつくられたのである。
 このように大正末期になると地主と小作人の対立が激しくなっていくのである。

実取の共同作業場