食糧増産と供出

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昭和十四年「米穀管理規則」が公布され、生産者といえども政府管理米は自由に売買できなくなったのである。金田村の記録によると第4表のように記されている。
第4表 昭和一五年管理米出荷表
生産量(俵)食糧種保有米(俵)管理米(俵)
七一、二五八二〇、〇四一五一、二一五
備考 一〇月早場米一、二八〇俵ヲ含ム
(金田・第二一九)

 この管理米が、大字別に割当てられ、供出が行われるのである。昭和十七年金田村の供出割当は二三、二〇〇石(三、四八〇トン)で、供出は一〇〇パーセント完了している。太平洋戦争が悪化するにつれ、生産は減退し、供出米は減少していったのである。それで政府は食糧確保の必要から、麦も、甘藷も、馬鈴薯も供出させたのであった。
 また食糧増産緊急対策土地改良事業が行われ、大田原町には原町営団が設けられ、開拓が推し進められたのである。
 同二十年太平洋戦争が終り、戦後の食糧不足は最悪の状態にあった。そうした状況にあって食糧緊急措置令による強権発動が行われたのである。供出は、大字内では各農家に割当てが行われるのであるが、土地の差異による収穫量などを反映して、大字内の班の分裂などがみられたのであった。
 次に記す文書は、同じ境遇にある者同志が相集り、新しい自治区を編成したのでその筋への届書である。
 
   結成届
私等は部落内の土地の差異に依り、毎年供出の割当ては円満に行かず行き悩んで居た処今回同じ境遇の者同志が相寄り別紙人名表の通り第三区を結成志ましたから御承認を願います。
昭和二十六年一月十六日

                                 区長氏名(以下略)
(金田・第一六)