農業の機械化・集団化

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農地改革によって自作農としての地位を確保した農民は、食糧増産に意欲を注いだ。特に戦後の食糧不足は、農家をして稲作・開田化への道を歩ませたのである。昭和二十年代の東京電力大田原営業所管内の揚水ポンプの普及状況と、灌漑面積の増加状況は第5表のとおりである。また、大田原地方の旧町村別揚水ポンプの普及台数は第6表のとおり昭和二十二年には二二七台であったものが、同二十五年には三五六台になり、昭和三十年には六九八台へと増加の一途をたどったのである。このようにして、同年には水田面積は約三、三八〇ヘクタールになったのである。
第5表 東京電力大田原営業所管内揚水ポンプおよび灌漑面積の変遷
年次台数灌漑面積
1585.6
1696127.5
17125168.0
18173229.5
19329496.0
20468723.0
215951,040.0
227371,325.0
239151,870.0
241,0482,094.4
251,1482,160.5
261,3562,660.9
271,5643,188.3
281,676
(「昭和30年度地理実地調査報告」宇都宮大学)

第6表 大田原地方の揚水ポンプ
(台)
旧町村年次
222530
大田原67110181
親園294360
野崎81496
佐久山002
金田131189359
227356698
(「昭和30年度地理実地調査報告」宇都宮大学)

 昭和三十年代に入って経済の高度成長期に入ると、揚水ポンプは大型化し、開田は大規模化していった。同四十五年には水田は六、八三六ヘクタールになり、同三十年の約二倍以上に達したのである。そして農村には大小の揚水ポンプが設置され、電線が水田の中を走るというように、農村景観を一変させてしまったのである。
 このような急激な水田化は、当然労働力の不足を生じてくるのであった。この状況を記したのが次の新聞記事である。
 
大田原市ではこのほど田植えの協定賃金を一日二食付き十時間労働で八百円と決めたが、市では『人手不足が深刻になれば当然、労務者の奪い合いから賃金はつりあげられ、名目だけの協定賃金にもなりかねない』と複雑な表情だ。

 
(「下野新聞」昭和四一年四月一九日付)

 このような労働力不足をカバーするために普及してきたのが動力田植機であり、吉際稲作集団などの組合がつくられたのもこのころである。昭和四十四年米生産総合改善パイロット事業が導入され、四〇〇ヘクタール単位の営農団地がつくられ、カントリーエレベーターや、乗用トラクター、コンバインなどの大型機械が導入されるなど、一挙に近代化が推し進められていくのである。