自作農創設

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大正十五年(一九二六)「自作農創設維持補助規則」が公布された。小作争議(前節小作農と地主参照)をみた親園村では同年八月七日「自作農創設維持資金貸付規程」を制定し、貸付をはじめたのである。その結果、同十一年以来結成されていた小作人組合は、昭和二年の夏に解散したのである。
 この自作農創設の動きは野崎村や佐久山町においては昭和元年よりみられた(第9表)。金田村では少し遅れて、同四年に第一回の起債が行われている。しかし同村ではそれ以後、同十三年までは行われていないのである。
第9表 自作農創設維持資金貸付額
(単位:円)(昭和12年7月現在)
大田原親園野崎佐久山金田
昭和元年度4,75110,2553,96222,128
3,160
26,7507,3803,14517,275
34,7203,4404,0164,00023,760
5,5901,994
44,0303,6154,43012,075
53,6843,684
61,9323,3635,295
73,0163,016
8
93,5963,596
104,6104,610
1147,0063,02850,034
47,00645,18333,73115,5534,000145,473
(「栃木県史 史料編・近現代4」)

 大田原町では、昭和十年十一月二十一日、宇都宮地方裁判所より渡辺農場の小作調停申立が受理され、「小作調停法」(大正十三年公布)による和解が成立、同十一年自作農創設維持資金四七、〇〇六円の起債が行われている。その様子については本町成田山境内地に建碑されている「渡辺農場謝恩碑」には、
 
  岩本氏父子及栃木県小作官補富田正作氏等其ノ意ヲ受ケ往復斡旋遂ニ其ノ企図ヲ全フスルニ至レリ
 
と記されているように自作農創設が行われたのである。

自作農創設記念碑(羽田)

 同十二年七月七日日中戦争が勃発した。これを契機として、金田村では再び自作農創設の動きがみられるようになった。当時の村会議事録の中に次のような議事が記されている。
 
  議案一八号 自作農創設維持資金起債ノ件
  書記 議案朗読
  村長 議案ノ説明ヲナス
七番目 朗読ニテ略了解セリ、本員トシテノ希望ヲ述ブ、事変ニ教ヒラレタル関係愈々自作農ノ必要益々肝要ノ事ナリ、以前ノ村会ニモ極力述ベタリ、増産計画ト密接ナル関連性アリ

(金田・第一〇三)

 
こうして、同十三年から同十七年にかけての五か年間に七七名の自作農が創設され、水田二七町六反四畝二〇歩(約二七・六ヘクタール)、畑七九町四反三畝二九歩(約七九・四ヘクタール)、山林六反九畝歩(約〇・七ヘクタール)、宅地五町七反三畝八歩(約五・七ヘクタール)が農民のものとなったのであるが、これらは小作人の一部にしかすぎず、農民が農地を自分のものとするには、第二次世界大戦後の「自作農創設特別措置法」の成立までまたなければならなかったのである。