那須野が原の開拓は、明治十三年(一八八〇)の三島通庸の開いた肇耕社、佐久山の人印南丈作・矢板の人矢板武の両人が中心となって組織した那須開墾社等がその先駆となって、その後多くの華族たちが競って農場経営に乗り出し、北海道と共に、全国でも類をみない大農場の展開をみるのである。しかし、近代以前、つまり近世にも、代官や民間人によって、それぞれ目的こそ異なれそれは行われていたのである。
「蒲盧碑考」(人見伝蔵著)によれば、那須野が原の開拓は、巻川用水をはじめ長島堀・岩崎堀・穴沢用水などの用水路開削計画によるものが主であったが、特筆するような成果はいずれもみられなかった。また、江戸時代の文化期に、吹上代官山口鉄五郎高品(たかかず)(親園の八木沢に出張御陣屋を設置し、塩那の天領一八、〇〇〇石を管理した)が、百村穴沢(黒磯市)から一条の水路(山口堀)を貫き、新田二〇〇町歩(二〇〇ヘクタール)の開発を行ったことは有名で、これについては「大田原市史前編」に記述があるので、ここでは省略することとする。
なお、上記の開発計画は、直接大田原市とのかかわりが稀薄であるので、本項では、特に大田原藩政とかかわりの深い米沢藩士加勢友助の開拓、御用堀蟇沼用水の開削、それに大田原の豪商若林善兵衛の西原開拓に触れ、明治期以後の開拓前史としたい。