(1) 加勢友助の那須野が原開拓

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 近代以前の那須野が原開拓の本格的展開は、米沢藩士加勢友助の開拓に始まる。友助は故あって藩籍を追放されるや、米沢特産の絹織物を販売せんと、しばしば上方に往く途次那須野を横切り、大阪堂島の穀商浅野定次郎、阿波の富豪山口又兵衛に出資を乞う一方、大田原藩へ東西原二五、〇〇〇町歩(二五、〇〇〇ヘクタール)に及ぶ開拓許可を請願したのである。大田原藩では、当初余りにも遠大な開拓計画のため消極的な扱い方であったが、遂に友助の熱情に動かされ、開拓許可を与えるのである。
 
     免状
奥州街道東西野之内幅百町竪弐百五拾町之間其方共開発畑ニ仕度願ニ付右地所相渡候尤拾六年目ヨリ金百両宛相増弐拾五年目ヨリ金千両年々上納可致候且大望之企ニ付給人格申付公私諸掛リ物用金ニ至ル迄永々免許申付候也

   天保十二年十二月
                                        大田原主計
                                       外 八名連署
   浅野定次郎 殿
   山口又兵衛 殿
   加勢友助  殿
  右之免許永々不可有相違者也
   飛弾 印(大田原藩主)
(「増補 那須郷土誌」渡辺金助著)

 この認可に踏み切った大田原藩の真意は、免状記載にもあるとおり、莫大な藩収入によって、行き詰まっている藩財政を立て直そうと考えたことは明白で、それ故給人格待遇の格式を与え、公私の課役を免除してまで保護したのである。
 友助は大田原宿字六本松に開墾事務所を置き、農夫数十人を雇い、栗・楮・櫨・漆樹・梨・柿・桃等を移植し、成育良好であったが、不幸にも三年後の弘化二年(一八四五)に野火の焼くところとなってしまった。しかし、友助はこれに屈せず、成功を期して再び四年の歳月をがんばったが、嘉永二年(一八四九)に至り、出資者浅野・山口相次いで没し、米沢藩主の命もあって、翌年米沢へ帰った(「那須郷土誌」、「西那須野町史」)。
 
 国立公文書館の「栃木県史料八一、栃木県史附録 大田原藩県史」の一節に、
 
大田原駅地内ニ荒蕪地若干町歩アリ字ヲ十六本松ト云フ弘化年間同駅平民加勢信四郎自費ヲ以テ之ヲ開墾ニ着手シ明治四年辛末ニ至リ始メテ其業ヲ終ヘ草高二十一石一斗三升六合ノ地ヲ得タリ段別詳カナラズ而シテ民家十戸ヲ之ニ移シ以テ一村落ヲ起シ終ニ浅野村ト名称ス然レドモ(ドモ)其開墾費額等今日復タ書類ノ徴ス可キモノナシ殊ニ恨ムヘシトス(ヽ印は筆者付す)

とあり、ここでいう加勢信四郎は、友助の子供にあたり、一般にいう友助が養子熊次郎をもらって跡を継がせたというのは誤りで、熊次郎は信四郎の子で、友助の孫になるのである。これは、「那須野略記」に、
 
(前略)然ルニ其子加勢信四郎又能ク親ノ志ヲ継ギ、奮テ此業ニ従事シ、樹ヲ植ヒ地ヲ開キ一時六十余戸ノ民家ヲ移セシモ、当時世運ノ趣カザル或ハ亡ビ、或ハ脱シ、今日ニ至テハ僅カ二十余戸ヲ存スルノミ。則チ今大田原宿ノ南十町許ノ所ニアル一小村是ナリ。前年此村ヲ名ヅケテ浅野村ト云フ。(中略)、而シテ加勢ノ家今尚ホ盛ナリ。則チ友助ノ孫熊次郎ト云フ。

と、あるによっても明白である。また、熊次郎は、明治二十八年に仲間一八名と「北海道土地貸下願」を郡役所を通じて提出している事実からも推察できる(大田原・第九八)。
 前記藩県史文中の「十六本松」とあるのは「六本松」の誤りであろう。つまり、文中の浅野村は、現在の富士見町と浅香町とに跨る地域で、ここを本拠地に加勢友助が那須野が原大開発を試みたことがわかるのである。
 その後、加勢氏の子孫や浅野地区の有志は、大正元年(一九一二)十一月に、友助五〇回忌を記念して「那須野開墾率先者加勢友助翁記念碑建立費募集趣意書」を作成し、識者の賛同を呼びかけている。しかし、当時は建立に至らず、先代の意志を継いだ子孫が、昭和五十年三月に旧奥州街道(佐久山道)沿の八幡宮(富士見町)入口に、記念碑を建立したのである。