蟇沼用水は、蛇尾川上流より取水し、
蟇沼――折戸――上横林――横林――接骨木――西富山――高柳――石林――大田原
に至る用水堀で、別名「大田原用水」とも呼ばれ、大田原藩の御用堀であった。
ところで、一般に蟇沼用水は天明年間(一七八一~一七八八)に開削されたとされているが、その起源は慶長年間(一五九七~一六一五)に作られた接骨木堀に発し、天明年間には、用水堀沿の農民が、新堰堀開削大普請を大田原藩主に請願したということで、未整備であった用水堀の整備方を願い出たのであって、蟇沼から大田原までの用水堀全部が開削されたというのではない。これは、石林――大田原城下、接骨木――石林などの水路開削や堀路の杭建てなどの段階を経て、蟇沼用水開削を行っているのであり、その完成は、天明年間以前の安永七年(一七七八)であったというのである。
この間の経緯について益子孝治の調べによれば、次のようである。
大田原藩が開削した蟇沼用水は、大田原藩史料によると、明和八年(一七七一)三月石林村役人を藩庁に召喚して蟇沼用水堀末流を大田原城下に疎水するための意見を求めたが、村役人は蟇沼堀は常に水量乏しく分水は困難であると答えたと記され、その後、藩士秋元利分が水路検分に派遣され高柳、富山、下井口、上井口、接骨木、折戸、蟇沼を巡察調査を行い、五月に至り石林村端より大田原境迄の水路開削を行ったと記録されている。また、三年後の安永三年(一七七四)十月、用水堀修繕のため石林、高柳、富山、上井口、下井口、接骨木、上横林、下横林、折戸の領内九ケ村に修繕費用として、一ケ村当り一貫百三十文を負担させ、なお、翌四年三月には、新堀開削のため接骨木より石林まで堀路の杭を建てたと記されている。
のち、安永七年(一七七八)四月、藩代官田辺義右エ門に御用堀接骨木村より大田原までの堀浚渫のことを監督せしめ、この時に関谷道接骨木道分岐上の幸七所有の山を延長四二間(約七六メートル)幅員二間(三・六メートル)を道路とし、幸七には旧街道跡を代替地として与えているのである。
のち、安永七年(一七七八)四月、藩代官田辺義右エ門に御用堀接骨木村より大田原までの堀浚渫のことを監督せしめ、この時に関谷道接骨木道分岐上の幸七所有の山を延長四二間(約七六メートル)幅員二間(三・六メートル)を道路とし、幸七には旧街道跡を代替地として与えているのである。
いずれにしても、蟇沼用水は御用堀のため一般農民が水田等に利用することはできなかったのである。しかし、明治期に入ると、水田灌漑計画もなされ、同二十四年(一八九一)「蟇沼堰普通水利組合」が設置され、三〇〇町歩(三〇〇ヘクタール)に及ぶ開田を目的として再出発したのである。