天保の初め(一八三〇年ごろ)、大田原寺町の豪商若林善兵衛が、大田原藩主の許可を得て那須西原南郷屋西方に開拓事業を起こし、原野数百町歩を開いたと伝えられている。しかし、これらの具体的事実については記録的に不明で、詳細を知り得ないのである。
彼は通称西海石善兵衛といい、野州煙草を江戸へ販売して富商になったといわれる。奇行多く風雲児的生涯と伝えられているが、行年六四歳で没し、洞泉院(山の手一丁目)に葬られている。この祖父善兵衛の意を継いだ若林謙次郎は、三島開墾(太夫塚)地内および南郷屋続きを開墾し、農家五〇戸を小作としたのである(「那須郷土誌」渡辺金助著他)。
以上、大田原藩との関係において、近代以前の開拓として三事例を挙げたが、いうまでもなく那須野が原に位置する大田原市の本格的開拓は、近代に入って展開されるのである。