今般御一新ノ御親裁ヲ奉戴難有仕合奉存候。依テ報恩ノ為、右那須野ノ広原追々ニ開拓仕、人民ヲ殖シ村落ヲ増加シ、朝廷ノ御租税相増候様仕度、就テハ御時節柄恐入奉存候ヘ共、右入用ノ方ヘ御下ゲ金被成下度、農家取建ノ仕方並御下ゲ金上納ノ調、別紙ノ通御聴済被成下何卒出格ノ以御賢察、飛騨守ヘ被仰付候様奉願上候云々
(「栃木県史 史料編・近現代五」)
と申し出たのである。また、右の具体的内容は、
一金三千両 御下金
金三十両 農夫一人ヘノ渡金
内
金十五両 農馬一疋代
同十両 一ケ年夫食
同五両 農具代家財一式
右ノ通一人分三十両ヅツ相渡百人三千両ノ積リ
(「栃木県史 史料編・近現代五」)
というものであった。
なお、三、〇〇〇両の返済方法は、農夫一人につき、年三両ずつで、一〇〇人なので三か年で三、九〇〇両となるが、できれば一〇年にしていただきたいと請願している。また税金は、入植後三年目より四公六民の割で納入し、入植者は領内の次男・三男を充当し、不足の場合は他郷より募るという予定であったのである。
ここでおもしろいのは、入植者へ渡す反別は「申出候力丈ケ地面相渡候」という点である。広大な那須野は、未開の荒蕪地が果てしなかったことを意味して余りある一文である(「栃木県史 史料編・近現代五」)。
以上、大田原藩が自ら管理していた那須西原に、一〇〇人の農民を入植させようとしたわけであるが、すでに大田原藩では江戸時代に「蛇尾川ノ水ヲ引テ西原ニ灌ガント欲シタレドモ功遂ニ成ラズシテ」、「今唯一小堀跡ヲ見ルノミ」と岩倉具視に提出したことが、「那須野略誌」に記されている。
大田原藩からの出願申請を受けた政府は、明治三年(一八七〇)、民部大佐弓場重世を遣わし、大田原藩士相山義倶等と図り、再び蛇尾川より水路を引き西原開墾を企てたが、たまたま民部省廃止の事態となり、中止の止むなきに至っている(「那須野略誌」)。
ここに、大田原藩の開拓計画は、明治維新という近代国家生成の過程の中で埋没され、その実現をみるに至らなかったのである。