(2) 旧藩士や富豪の開拓―西原開墾(渡辺農場)―

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 明治十四年(一八八一)六月に大田原の富豪成田久八・細小路熊次郎・小林久七・相馬幸吉・印南詠帰・斉藤松寿(寄留)の六名は、大田原宿字西ノ原・赤堀・深川西などに所在する官有芝地一七筆、五七町四反三畝二歩(五七・四ヘクタール)の拝借願を栃木県令藤川為親宛に提出したのである。
 
 (前略)
第一項 右地開墾ハ向十五ケ年ヲ以テ成功之見込ニ付右年限中無借地料ニ被成下度候事
第二項 年々開墾成功之分ハ反別取調出願候間素地相当之代価ヲ以テ拝借人江御払被成下度直ニ地券御下ニ相成度候事
第三項 前項之趣キニヨリ此節ヨリ素地之代価御取極置相成度候事
第四項 数町歩拝借ニ付直ニ作付仕候共又ハ小作為致候共拝借人便宜ニ取計申度事
右御聴許相成候ハハ一同協力若干之資金ヲ費シ水利等相開キ本年ヨリ耕耨仕聊御国益ヲ相□度志願ニ有条厚ク御酌量之上至急御裁可被下度此如奉懇願候也
 明治十四年六月

                               那須郡大田原宿
                                     願人 成田久八
                                        外  五名
この拝借願に対して、同年十月十八日付で、県令より次の五条件を付して許可されたのである。
 
①地所貸渡し年限は来る十一月より満十五年と定め、その間借地料を免除する

②十五か年間に成功の見込みをもって、年々開墾すべき反別の調帳を作成し、かつまた、反別の区画の記載する絵図面相添えて着手前に差出すべきこと

③来る十一月より満二か年目、及び五か年目毎に実地検査を遂げ、第二条予定通り成功せざる部分の土地は還納致すべきこと

④開墾中たりとも、公同便益のため河川道路等の用に供するときは、その部分を区別し、速かに返地致し、尤も場合によっては、開墾費用の支出証明確なるものは償還すべきこと

⑤開墾成功の反別を区域毎に払下げ願出候節は、素地相当の代価、つまり壱反歩に付金拾五銭の割合を以つて払下げるべきこと

 その後、十七年(一八八四)の一月十五日の「地所区分申合約定書」をみると、前記六名の五七町四反三畝二歩(五七・四ヘクタール)の拝借地に、前記保証人の細小路孫八が西ノ原の四町歩を払い下げて同盟に加わり、総反別六一町四反三畝二歩(六一・四ヘクタール)となっている。孫八は、すでに後述する同十六年の「開墾事件」にも加わっているところから、早い機会に同盟に加わったものと推察できるのである。なお、この総反別六一町(六一ヘクタール)の中には、大田原宿寄留斉藤松寿受持の二町歩(二ヘクタール)の「但し五ケ年季拝借地」が含まれている。それでは、十七年一月時点での七名の持分を次に挙げよう。
 
  大田原地内官有拝借地惣反別六拾壱町四反三畝弐歩
   内訳(合反別のみ記す)
  弐拾八町四反三畝拾五歩                          成田久八受持
  弐町三畝拾九歩                              相馬幸吉受持
  拾八町五畝四歩                            細小路熊次郎受持
  四町歩                                  小林久七受持
  四町歩                                 細小路孫八受持
  壱町壱反壱畝歩                              印南詠帰受持
  弐町歩                                  斉藤松寿受持
   但し五ケ年季拝借地
  壱町弐反歩                          不動堂建築敷地ニ寄付之分
  六反歩                            不動堂永続資本ニ寄付之分
 また、この「地所区分申合約定書」第二条では、各拝借地への配水分が取り決めされている。ここでは、開田配水予定反別は三〇町歩(三〇ヘクタール)としている。
  反別九町六反歩                                成田久八
  〃   四反歩                                相馬幸吉
  〃八町六反歩                               細小路熊次郎
  反別壱町四反歩                                小林久七
  〃 五町歩                                  印南詠帰
  〃   五反歩                                斉藤松寿
    四町五反歩                               細小路孫八
    合反別三拾町歩
 ここでいう配水計画は、印南・矢板らの請願運動で実を結びつつあった那須疏水を利用するというのではなく、独自の水路開削による配水計画であった(後に、那須疏水の水利権一・三六個(〇・〇三七立方メートル)を取得している)。これらの水路開削の事情については、「西之原開墾記念碑」に詳しいので、次に挙げよう。
   西之原開墾記念碑
那須郡大田原字西之原ハ那須原ノ一部ニシテ今渡辺子爵ノ所有タリ多年ノ経営克ク其ノ功ヲ奏シ儼然トシテ一良村ノ観ヲ呈セリ而モ豈ニ其ノ由来スル所ナカルベケンヤ慶応三年大田原ノ人成田久八外二人同町ノ陸圃ニ灌漑ノ企ヲナシシモ天災地変事業水泡ニ帰シタリ継新官各地ニ開拓ヲ奨励セラル是ニ於テ成田久八旧療頓ニ生ジ復措クベカラズ明治十三年斉藤松寿ノ慫慂ト相待ツテ相馬幸吉小林久七印南詠帰細小路熊次郎ノ同志ヲ得十二月官許ヲ受ケ移民ヲ招集シ前業ヲ恢復ス翌年三月更ニ鑿渠ノ允許ヲ得新堰ヲ河淵魚川ニ築キ或ハ旧洰ヲ整ヘ或ハ新溝ヲ起シ上之山ヨリ西之原ニ至ル延長二千余間アリ其ノ他橋ヲ架スルモノ五堤ノ築クモノ二隧道ヲ穿ツモノ一此工事費三千二百余円ヲ要シ六月ニ至リテ工ヲ竣ヘ始メテ水稲ヲ移植ス去年ノ磽确ハ膏腴ニ変シ昨日ノ雑草ハ嘉禾ト化ス是レ世人ノ夢想ダニモ及バザル所ナリ同年八月車駕北巡ノ際松方内務郷ノ視察ヲ受ケ且ツ有栖川左大臣宮殿下ノ褒詞ヲ拝ス碑陰ニ謹刻スル所ノ如シ翌年更ニ細小路孫八参加ヲ容レヌ隧道一ケ所ヲ穿チ蛇尾川ノ水ヲ疏通ス延長百余聞アリ地質鬆粗岩層崩壊工費頓ニ加ハル而モ百折撓マズ千挫屈セズ遂ニ素志ヲ貫徹シ良田五十七町歩ヲ得タリ(以下略)。

 ところで、十六年の「開墾事件」であるが、十一月三十日付で、「和解仮条約証」が同盟者間で取り交わされた。しかし、争点等についての詳しい記事がないので、具体的に解明することはできない。ただ「和解仮条約証」によると、
 
  ①全拝借地六拾壱町四反弐畝三歩を同盟者へ分割する。
   弐拾九町七反三畝弐歩                         成田・相馬持分
   壱町弐反歩                              不動堂境内敷地
   三拾町五反弐歩                               二組等分
     拾五町二反五畝壱歩                     細小路(熊)・小林組
     拾五町二反五畝壱歩                  印南・斉藤・細小路(孫)組
②前条割合の内、相馬が拝借した四町歩を印南詠帰外三名へ引渡し、拝借人変換は連印を以って出願すること。

③同盟拝借地の内壱町弐反歩を連印で出願許可を得た上は、成田山不動堂勧請の敷地に献備すること。

④拝借地の内、水田開拓の分配水反別を三拾町歩とし、各組拾町歩宛引用するものとする(前記のように約拾町歩宛配水予定)。

⑤用水路開削費を三、二〇四円とする。また、同盟者外の一町を加えた反別割とし、各組一、〇三三円五五銭を十二月十日迄に支払うものとする。但し、これまでに支出している場合は、それを差引き支弁するものとする。

⑥用水路にかかわる諸費用は、すべて反別割で支弁するものとする。

⑦用水については公平に引用し、仕付時期や干ばつの時などは、十分協議の上引用すること

⑧不動堂建築に伴う道路改造は、出願し許可を得ること。

となっており、開墾着手当時の概要を知ることができるのである。また、同十七年段階での大田原宿の不耕地は、四九三町八畝二四歩(四九三・八ヘクタール)で、那須野村九〇町歩(九〇ヘクタール)と記録に見えているのである。(大田原・第八一)。同二十一年(一八八八)十二月十二日に、成田忠三(久八の子)は八筆、二八町五反一畝一五歩(二八・五ヘクタール)のすべてについて「払下地地券御下付願」を那須郡長宛に提出している。これによると、実測面積の増減がみられ、三一町三反二畝二歩(三一・三ヘクタール)となっている。その後、同年十二月二十四日大田原宿の大高文七は、畑一九町二反五畝一四歩(一九・二ヘクタール)、宅地三反六畝三歩(〇・三ヘクタール)、山林八町三反三畝二二歩(八・三ヘクタール)の計二七町九反五畝一一歩を成田忠三より買収している。大高は二十二年一月十一日付で渡辺国武(長野県諏訪郡長地村出身)にこれらの土地を売却している。細小路熊次郎の四筆・一八町五畝四歩の拝借地も畑に開墾し払い下げた後に、渡辺国武に売却された。こうして渡辺農場(長地農場)が形成されていくのである(大田原・第八一、「県史だより」第二七号 笠井恭悦「那須野が原開拓雑記」)。
 このほか、旧大田原藩士鈴木義達ら一一名は、明治十三年(一八八〇)ごろ、字西ノ原の三〇町歩(三〇ヘクタール)の拝借を受けたが、これも、同二十七年(一八九四)に渡辺国武に売却され、渡辺農場の中へ包含されていったのである。
 渡辺国武は、金田北東部に渡辺農場を開いた渡辺千秋の実弟で、旧信州高島藩士で後に子爵となった人である。彼は信州長地村の出身であるところから、彼が買収して経営した大田原西ノ原の農場を、兄の経営した渡辺農場と区別する意味もあって長地農場という場合が多い。
 ところで、国武は明治二十七年(一八九四)に大田原西方一〇〇町歩(一〇〇ヘクタール)を買収したと一般にいわれているが、前述したように二十二年の段階で、すでにかなりの部分の買収を終了していることがわかる。
 この農場は那須野が原の大農場の中でも、比較的水利に恵まれ、水田率は極めて高い方であった。大正末には、水田二〇町(二〇ヘクタール)、畑四八町(四八ヘクタール)が開かれていたが、昭和十年には、自作農創設の機運が盛んとなり、遂に小作地を解放したのである(解放完了は十二年といわれている)。同十四年に自作農創設を記念して記念碑を本町成田山境内に建立した。