(3)加治屋開墾(西郷農場)

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 加治屋開墾は、印南丈作・矢板武らが明治十四年(一八八一)に追加拝借を受けた九〇〇町歩(九〇〇ヘクタール)のうち、同年中に、大山巌・西郷従道の両氏の申し入れによって、五〇〇町歩(五〇〇ヘクタール)を拝借替した。両人は共に旧薩摩藩士で、いとこ関係にあり、両人の出生地の名称をとって加治屋開墾とし、初めは共同経営を行ったのである。この地域は、現在の西那須野駅周辺(永田区)と大田原市加治屋(加治屋区)に当たる。
 同十三年(一八八〇)に、印南・矢板らは那須西原の官有原野三、〇〇〇町歩の払下げを受け、有志の株組織による那須開墾社を創業したが、既定の株数たちまち充足し、株所有を希望する接続村落の人々に迷惑をかけるという理由で、約一、〇〇〇町歩(一、〇〇〇ヘクタール)のうち、親園村に属する約一〇〇町歩(一〇〇ヘクタール)の入会秣場を除いた九〇〇町歩(九〇〇ヘクタール)の拝借願を、県令に提出したのである。
 この拝借増願に対し、三か月後の九月十七日付で許可が下りた。それには五つの条件が付されていたが(大田原・第八一)、同二十二年(一八八九)二月十六日付で、前記九〇〇町歩(九〇〇ヘクタール)のうち、大山・西郷は、すでに五〇〇町歩(五〇〇ヘクタール)を分割取得し、加治屋開墾場として経営に乗り出していたのである。
 五〇〇町歩(五〇〇ヘクタール)分割について当時の那須開墾社内では、内務卿の伊藤博文を通じての申し出に、三〇〇町歩(三〇〇ヘクタール)内外で譲渡をしようと、首脳陣の話し合いはまとまっていたが、結局、五〇〇町歩(五〇〇ヘクタール)譲渡に落着いたという(「那須野ケ原開拓史研究」第一〇号)。
 ところで、加治屋開墾の経営は、植林・小作経営が主であったが、始業当初のころは、比較的牧牛が盛んであった。この牧場は、明治十五年(一八八二)五月一日に開設され、面積二〇〇町歩(二〇〇ヘクタール)におよび、乳牛は当時農商務省から借入したもので、加治屋には現在牛之原という地名も残されている。飼育頭数も、同二十五年(一八九二)には七一頭に達し、主要農場の中でも屈指の地位を占めていたのである。
 明治十九年(一八八六)に大山・西郷らの強い働きかけによって東北本線が開通し、彼らの所有地の一角に那須野停車場(西那須野駅)が開設された。
 同三十四年(一九〇一)に至って西郷と大山は、加治屋開墾の将来を考え、分割して個人経営にすることとなり、第一農場分二〇〇町歩(二〇〇ヘクタール)、第二農場分三〇〇町歩(三〇〇ヘクタール)のうち、駅より塩原街道沿の左側五〇町歩(五〇ヘクタール)を第一農場に付けることで分割方法は決まった。こうして加治屋区は西郷が取得し、下永田区は大山が取得し、永田区は折半ということで、それぞれ、西郷農場・大山農場の成立をみるのである。ときに、明治三十四年(一九〇一)九月であったのである。