西郷農場

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西郷農場は、明治四十四年(一九一一)段階での成業概況をみると、水田一七町歩(一七ヘクタール)、畑六〇町歩(六〇ヘクタール)、山林一八〇町歩(一八〇ヘクタール)であった。小作戸数は四〇戸で、小作料は、田方一反歩当り六斗(玄米)、畑方同一円という現況であった。そのほか、農具として西洋式一二台、和洋式五五挺となっており、農場の収入は、水田小作料一、二〇〇円、畑小作料五〇〇円、西那須野停車場前貸地料六〇〇円、雑収入一〇〇円、計二、四〇〇円であった(「栃木県史 史料編・近現代五」)。
 また、大正末には、田三五町歩(三五ヘクタール)、畑八八町歩(八八ヘクタール)に達し、那須野が原の大農場の中では水田率が高い方であった。移住者人口二八五人、戸数は五〇戸に達した。特に、富山からの移住者が圧倒的に多く三七戸、二一〇人を数えている点に注目したい。移住者には、次のような待遇がなされていた。
 
移住者開畑スルトキハ、農場ヨリ一反歩八円ノ補助ヲナシ、翌年ヨリ小作料二円、開田ノ場合ハ一反歩十五円ノ補助ヲナシ、翌年ヨリ小作料二斗ニテ、二ケ年間落葉ハ全部無料、生木ハ時価ノ半額ニテ交付ス

(「栃木県史 史料編・近現代五」)

 昭和十年、自作農創設の波は加治屋区にも訪れ、当時の区長星野五郎作は、地主西郷従徳(従道の子、二代目)に小作人の総意を伝えたところ、従徳は時勢の赴くところを達観し、ここに、加治屋区の自作農創設は、昭和十二年までに完了することができたのである(「加治屋郷土誌」)。