谷中開墾

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明治政府は、渡良瀬川沿岸の谷中村を遊水池とし、渡良瀬川の洪水を防ぎ、足尾銅山から出る鉱毒を耕地に流入しないようにしようと計画を推進したが、田中正造らの指導による住民の強い反対に遭遇し、思うにまかせなかった。業を煮やした政府は、ついに「土地収容法」を成立させ、いよいよ強制執行にかかった。時に、明治四十年(一九〇七)六月二十九日であった。これが谷中村の滅亡の日と荒畑寒村は「谷中村滅亡史」の中で述べている。
 北金丸の谷中開墾は、県や政府の奨励で谷中村を見切り、再生の道を求めて、北海道や塩那地方へ散った谷中の村民たちが、小数ながらも、協同・団結して大地を開墾していった一例である。同三十八年(一九〇六)十一月入植というから、谷中村滅亡の約七か月前ということになり、入植者は八戸で、二〇町一反九畝二八歩(二〇・一ヘクタール)の官有地の払い下げを受けたのである。入植当時は長屋二棟が立っていて、そこに入って開拓に従事したとのことである。当初は西も東もわからなかったが、鶏の鳴き声が東から聞えたので、東に家(小立)があるのが分かった。また、肥料とて何もなく、馬糞を拾って肥料にしたという。大変な苦労の連続であったが、協力し合い、現在二四戸になっている(住民の話)。
 なお、入植一〇年後には水路も開削し、良田七町余歩(七ヘクタール余)となったと「開墾記念碑」は伝えている。しかし、所によっては、塩原町接骨木の谷中移住者のように、移住地を捨てて廃村となる例もあった(「塩原町誌」)。北金丸の場合は、谷中村のような泉のわく湿地もあり、よしなども繁茂し、入植当時、生活に困窮した移住民たちは、谷中でやっていたよし細工などで、かろうじて生計を維持できたという(住民の話)。下江川・上江川・喜連川などの塩那地方へ入植した谷中の人たちは、接骨木を除いて定住できたようである。