官有草生地拝借願
下野国那須郡北金丸村字直箆四拾三番
那須郡北金丸村願人
小泉福太郎
一官有草生地 一反六畝拾九歩
此拝借料金壱ケ年金弐拾銭
反金拾弐銭
明治廿二年一月ヨリ仝廿六年十二月迄五ケ年季
但シ、陸田ノ見込
右之地所陸田ノ為開墾拝借仕度、御聞届ケノ上者、官有地拝借地心得書堅ク遵守可致、依之絵図面相添此段奉願候也
明治廿二年三月四日
右願人 小泉福太郎
保証人 磯飛己之次郎
仝 磯飛鉄吉
戸長代理 加藤勝二
栃木県知事 樺山資雄殿
下野国那須郡北金丸村字直箆四拾三番
那須郡北金丸村願人
小泉福太郎
一官有草生地 一反六畝拾九歩
此拝借料金壱ケ年金弐拾銭
反金拾弐銭
明治廿二年一月ヨリ仝廿六年十二月迄五ケ年季
但シ、陸田ノ見込
右之地所陸田ノ為開墾拝借仕度、御聞届ケノ上者、官有地拝借地心得書堅ク遵守可致、依之絵図面相添此段奉願候也
明治廿二年三月四日
右願人 小泉福太郎
保証人 磯飛己之次郎
仝 磯飛鉄吉
戸長代理 加藤勝二
栃木県知事 樺山資雄殿
(金田・第一二八)
これは官有草(生)地を、一反歩(〇・一ヘクタール)一二銭の割で、陸田を作付するのに借用するというものである。しかも、五か年間の期限付であり、その年から月割りで借地代を納めるという厳しいもので、大農場の一五か年無税とはかなりの相違がみられる。
次の事例であるが、明治二十二年(一八八九)二月八日付で官有芝地四筆、六反五畝七歩(〇・六五ヘクタール)を畑地にするための払い下げを、富池村荒井利平外一五名が願い出ている。この払い下げ代金は一反歩(〇・一ヘクタール)に付五〇銭の割合であった。これは、同二十二年六月十七日に知事に認可されている(金田・第一二八)。
また、この荒井利平外一五名は、同年に「官有立木払下願」を出して、同じように認可されているが、どんな立木か明かでないが、立木一七五本で、払い下げ代金は三円一三銭であった。参考までに旧金田村の大正期の官有地は第13表のとおりである。
第13表 旧金田村地内官有地 |
(大正3年7月現在) |
地区 | 山林 | 原野 | 計 |
町 反 畝 歩 | 町 反 畝 歩 | 町 反 畝 歩 | |
中田原 | 4・5・8・08 | 1・1・28 | 4・7・0・06 |
町島 | 8・8・24 | 5・01 | 9・3・25 |
羽田 | 0 | 4・7・1・21 | 4・7・1・21 |
乙連沢 | 0 | 10・9・3・24 | 10・9・3・24 |
小滝 | 0 | 20・0・6・27 | 20・0・6・27 |
北金丸 | 0 | 9・0 | 9・0 |
南金丸 | 0 | 1・6・15 | 1・6・15 |
上奥沢 | 0 | 12・3・6・12 | 12・3・6・12 |
奥沢 | 0 | 3・3・1・09 | 3・3・1・09 |
鹿畑 | 0 | 2・4・6・15 | 2・4・6・15 |
倉骨 | 0 | 5・0・2・25 | 5・0・2・25 |
北大和久 | 0 | 6・5・11 | 6・5・11 |
合計 | 5・4・6・32 | 59・9・3・58 | 65・3・9・9 |
(金田・第129) |
次に、親園村の森林開墾願の例を挙げよう。
森林開墾願
那須郡親園村大字花園字志ノ合三百十七番
一 山林反別九畝五歩
一 開墾反別九畝五歩
那須郡親園村大字花園拾九番地
持主 郡司銀三郎
仝郡仝村仝大字仝所三百十九番
一 山林反別八畝四歩
一 開墾反別八畝四歩
持主 仝人
右畑ニ開墾致度候ニ付御許可相成度、別紙図面相添へ此段奉願候也
明治四拾壱年弐月弐拾壱日
那須郡親園村大字花園拾九番地
願人 郡司銀三郎印
栃木県知事 中山己代蔵殿
(郡司猛子文書)
この森林開墾は拝借地ではなく、むしろ出願者個人の所有地の転用であり、地目変更的性格を帯びている。にもかかわらず、図面を添えて知事宛に願書を提出するあたり、開墾を奨励している当時の手続きとしては、大変きびしいといえる。また、それだけに、土地についての当時の人たちの執着は、非常に強かったともいえるのである。
以上のように、一般農民が僅かな面積ながらも、原野や森林開墾を推し進めていったことは、数が数だけに、累加されれば相当な面積が耕地化されていったわけで、華族などの大農場にのみとらわれがちな既成の開拓観を、このような面から見なおし、日本の農業経営史上における耕地の漸増の位置づけを考えることは、大切なことである。