三 第二次大戦後の開拓

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 昭和二十年八月十五日の終戦と共に、復員軍人は続々と帰村し、農村人口は極度に膨張していった。この緊急事態を重視した政府は、「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、「終戦後の食糧事情及び復員に伴う新農村建設の要請に即応し、大規模な開墾・干拓及び土地改良事業を実施し、もって食糧の自給化を図ると共に、終戦によって離職した工員や復員軍人その他の者の帰農を促進する」との方針のもとに、おおむね五か年間に一五五万ヘクタール、(内地八五万ヘクタール、北海道七〇万ヘクタール)を開墾し、一〇〇万戸を入植させる、との計画を実行に移した。さらに、開拓事業を恒久的なものとするため、同二十一年十月「自作農創設特別措置法」が公布され、未墾地取得は、急速かつ強力に推進されたのである。なお、同二十二年十月二十四日「緊急開拓事業実施要領」は、国土資源の合理的開発の見地から、開拓事業を強力に推進して、土地利用の増進と、人口吸収力の増大をはかり、新農村建設に寄与することを目的としたものであった。これによって、従来の開拓が失業救済的事業であったのに対して、開拓本来の姿である国土総合開発へと一大転換がなされたのである。
 こうした政府の方針に基づいて、民有地をはじめ旧軍用地・国有林野などが買収され、栃木県の場合でも、続続と開拓者の入植となったのである。入植者は、大体壬生・金丸・黒磯の三か所にあった開拓増産隊基地農場で訓練を受け、それぞれの地域に入植した。しかし、厳しい自然条件のもとでの全戸の定着化は無理で、しだいに脱落し、昭和三十年段階で三、〇三一戸、四十年段階で二、六六〇戸と当初入植者の約六割の定着率となった。それらの開拓者の入植前の経歴は、第14表のとおりである。
第14表 県内への戦後開拓入植者数
(昭和40年現在)
区分海外引揚者満拓軍人軍属戦災疎開地元
項目
戸数3014703555929422,660
割合%1118132236100
(「開拓三十年」)

 なお、本県から他県への入植者は極めて少数であったが、他県から本県への入植者は、東京・埼玉・長野・山梨・山形などから多数入植したのである。
 大田原市内の戦後の開拓は、野崎・金丸・金丸原(湯津上にかかる)・佐久山の四か所で、入植者の前歴は第15表のようになっている。
第15表 大田原への戦後開拓入植者数
(昭和53年現在)
区分引揚者復員軍人疎開地元
地区
野崎167(戸)
金丸327443
金丸原15433290
佐久山71017
(「開拓三十年」)

 これをみると、金丸開拓の場合は、復員軍人の入植者の割合が高く(七四・四パーセント)、金丸原開拓の場合は、疎開者の入植割合が高い(四七・八パーセント)のが目立つ。地元入植者割合は三三パーセントで、県全体(三六パーセント)よりやや低いのである。
 なお、大田原の開拓での特色は、広大な軍用地を利用した金丸と金丸原の二か所の開拓であった。次に紙幅の関係もあり、四開拓の営農の推移の概要を述べることとする。
野崎開拓 (上石上二〇六五番地 入植戸数七戸)
陸稲・大小麦を主体とした畑作経営であったが、立地条件悪く、三十二年ごろから開田を開始した。開田の隣接地が工業団地となり、専業的な農業経営は困難となる。五十三年現在、水田九・八ヘクタール、畑二・三ヘクタール、樹園地〇・三ヘクタール、計一二・四ヘクタール。

金丸開拓 (南金丸一八九四~二番地 入植戸数四三戸)
陸稲・大小麦を中心とした畑作経営であったが、収量が十分でなく、三十五年ころから開田し、一方乳牛を導入、四十年から養蚕も導入した。五十三年現在、水田八四・一ヘクタール、畑三六・三ヘクタール、樹園地一・五ヘタタール、その他四・八ヘクタール、計一二六・七ヘクタール。

金丸原開拓 (湯津上村大字湯津上三一一六番地 入植戸数九〇戸)
陸稲・大小麦を中心とした畑作経営であったが、気象災害多く、収量不安定であった。五十三年現在、水田五五・四ヘクタール、畑一八七・八ヘクタール、樹園地三二・四ヘクタール、その他二九・六ヘクタール、計三〇五・二ヘクタール。

佐久山開拓 (佐久山五一三五番地 入植戸数一七戸)
食糧増産のため陸稲・大小麦・豆類・ばれいしょ・かんしょを栽培し、昭和三十年ごろからはすいか・唐辛子の共同栽培を行う。五十三年現在、水田一・一ヘクタール、畑一五・三ヘクタール、樹園地二・二ヘクタール、その他二・九ヘクタール、計二一・五ヘクタール。

 以上、第二次大戦後の開拓の概略を記したが、本項の記述は、主として栃木県開拓三〇周年記念事業委員会「開拓三十年」に拠ったことを特記しておきたい。