こうした政府の方針に基づいて、民有地をはじめ旧軍用地・国有林野などが買収され、栃木県の場合でも、続続と開拓者の入植となったのである。入植者は、大体壬生・金丸・黒磯の三か所にあった開拓増産隊基地農場で訓練を受け、それぞれの地域に入植した。しかし、厳しい自然条件のもとでの全戸の定着化は無理で、しだいに脱落し、昭和三十年段階で三、〇三一戸、四十年段階で二、六六〇戸と当初入植者の約六割の定着率となった。それらの開拓者の入植前の経歴は、第14表のとおりである。
第14表 県内への戦後開拓入植者数 |
(昭和40年現在) |
区分 | 海外引揚者 | 満拓 | 軍人軍属 | 戦災疎開 | 地元 | 計 |
項目 | ||||||
戸数 | 301 | 470 | 355 | 592 | 942 | 2,660 |
割合% | 11 | 18 | 13 | 22 | 36 | 100 |
(「開拓三十年」) |
なお、本県から他県への入植者は極めて少数であったが、他県から本県への入植者は、東京・埼玉・長野・山梨・山形などから多数入植したのである。
大田原市内の戦後の開拓は、野崎・金丸・金丸原(湯津上にかかる)・佐久山の四か所で、入植者の前歴は第15表のようになっている。
第15表 大田原への戦後開拓入植者数 |
(昭和53年現在) |
区分 | 引揚者 | 復員軍人 | 疎開 | 地元 | 計 |
地区 | |||||
野崎 | 1 | 6 | 7(戸) | ||
金丸 | 32 | 7 | 4 | 43 | |
金丸原 | 15 | 43 | 32 | 90 | |
佐久山 | 7 | 10 | 17 |
(「開拓三十年」) |
これをみると、金丸開拓の場合は、復員軍人の入植者の割合が高く(七四・四パーセント)、金丸原開拓の場合は、疎開者の入植割合が高い(四七・八パーセント)のが目立つ。地元入植者割合は三三パーセントで、県全体(三六パーセント)よりやや低いのである。
なお、大田原の開拓での特色は、広大な軍用地を利用した金丸と金丸原の二か所の開拓であった。次に紙幅の関係もあり、四開拓の営農の推移の概要を述べることとする。
野崎開拓 (上石上二〇六五番地 入植戸数七戸)
陸稲・大小麦を主体とした畑作経営であったが、立地条件悪く、三十二年ごろから開田を開始した。開田の隣接地が工業団地となり、専業的な農業経営は困難となる。五十三年現在、水田九・八ヘクタール、畑二・三ヘクタール、樹園地〇・三ヘクタール、計一二・四ヘクタール。
金丸開拓 (南金丸一八九四~二番地 入植戸数四三戸)
陸稲・大小麦を中心とした畑作経営であったが、収量が十分でなく、三十五年ころから開田し、一方乳牛を導入、四十年から養蚕も導入した。五十三年現在、水田八四・一ヘクタール、畑三六・三ヘクタール、樹園地一・五ヘタタール、その他四・八ヘクタール、計一二六・七ヘクタール。
金丸原開拓 (湯津上村大字湯津上三一一六番地 入植戸数九〇戸)
陸稲・大小麦を中心とした畑作経営であったが、気象災害多く、収量不安定であった。五十三年現在、水田五五・四ヘクタール、畑一八七・八ヘクタール、樹園地三二・四ヘクタール、その他二九・六ヘクタール、計三〇五・二ヘクタール。
佐久山開拓 (佐久山五一三五番地 入植戸数一七戸)
食糧増産のため陸稲・大小麦・豆類・ばれいしょ・かんしょを栽培し、昭和三十年ごろからはすいか・唐辛子の共同栽培を行う。五十三年現在、水田一・一ヘクタール、畑一五・三ヘクタール、樹園地二・二ヘクタール、その他二・九ヘクタール、計二一・五ヘクタール。
以上、第二次大戦後の開拓の概略を記したが、本項の記述は、主として栃木県開拓三〇周年記念事業委員会「開拓三十年」に拠ったことを特記しておきたい。