葉たばこ

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元和二年(一六一六)馬頭町ではじまったといわれる葉たばこの栽培は、那珂川を越えて大田原地方でも栽培されるようになり、明治のはじめまで原方物といわれていた。村には問屋といわれる葉たばこの売買を行う家があったという。こうした葉たばこの種類は横葉種で、明治初期の記録によると、大田原宿近在で、四、九九三斤半(約三、〇〇〇キログラム)の生産量があった。
 
  明治十一年那須郡大田原宿外四ヶ村特有物産
   葉烟草 四千九百九十三斤半
  大田原宿 三千弐百八拾斤
  荻野目村 弐百六拾五斤
  刈切村  七百六十五斤
  北大和久村 四百六十弐斤半
  赤瀬村  弐百二十壱斤
(大田原・第八六)

 明治十三年(一八八〇)四月四日大田原宿外二二か村による煙草改良組合が組織されるなどして、葉たばこの改良が行われたのである。このころになると、芳賀郡茂木地方より優良種の達磨種が移入されてきたらしく、こうして生産された葉たばこは、その筋の役所に届け出がなされたようである。次に記すのはその記録である。
 
     煙草収穫乾上葉量御届書
  那須郡大田原宿字平林 那須郡大田原宿 地主大倉倉吉
  千百八十六番畑壱反八畝廿壱歩内
   一畑六畝歩
   此収穫乾葉四貫五百目 九月採収
    但し丸葉      一月乾上
  右ハ明治十九年煙草収穫乾葉高前書之通御座候間此段御届申上候也
                                那須郡大田原宿二百十九番地
                                     右作人 大倉倉吉
  明治二十年二月十二日
 
  那須郡大田原宿
   戸長 神田貞殿
(大田原・第八三)

 大田原地方の全体の作付や収穫高がわかるのは、明治二十六年(一八九三)以降である。当時の面積は約九〇町歩(九〇ヘクタール)で、二一、二六六貫(約七九、七〇〇キログラム)あった(第20表)。
第20表 明治26年度葉煙草生産表
作付面積収穫高反当収量
町 反貫 匁
大田原町2.550020.000
親園村13.22.64020.000
野崎村1.437827.000
佐久山町5.01.50030.000
金田村67.716.24824.000
89.821.26623.681
(「那須郡統計書」)

 明治二十九年(一八九六)三月二十七日「葉煙草専売法」が公布になってからの、大田原葉煙草専売所の管内の耕作人員、一耕作者当りの反別および収量の変化は第1図のとおりである。明治三十年代は耕作人員の増減が著しいが、大正から昭和三十年にかけては三、五〇〇人内外で、昭和三十年から四十年にかけて減少が著しい。一耕作者当り反別は二反歩(〇・二ヘクタール)を上下するだけであるが、一耕作者当り収量は明治三十年頃の二〇〇キログラムから次第に向上し、昭和四十年には五〇〇キログラムを超えるようになったのである。

第1図 大田原の煙草栽培の推移


大田原専売公社

 このように収量が増加していくのは、品種の改良やたばこ耕作者等の努力によるものであって、品種改良では、大正末期から昭和初期にみられたものとして、松倉種(金田村大字練貫、松倉栄次郎の改良した品種)や大田原多葉種などがあった。
 また、たばこ耕作者等の努力の結果をあらわすものとして、日本専売公社による表彰がある。昭和二十五年のたばこ耕作者表彰一覧によると、次のような人々が表彰を受けていたのである。
   たばこ耕作総代特別表彰
大田原町三区 磯長作 親園村親園北区 国井由郎 佐久山町佐久山二区 石崎駒吉 金田村中田原 阿久津健

   団体表彰
  金田村今泉西実行組合代表永山次直 他十三団体
   婦人団表彰
  金田村南金丸 南金丸婦人団代表益子ハツ
   個人表彰 一等なし
  二等 金田村奥沢一区 鈴木鉎雄 他十九名
  三等 親園村花園 増渕正夫 他十名
 昭和二十五年の大田原地方のたばこ耕作人員は一、七四二人、耕作面積二七〇町七反八畝(二七〇・七八ヘクタール)、収納量目五四・七八八トン、収納代金五九、三三九千円で、一耕作者当り三~四千円の粗収入であった。しかし昭和三十年以降耕作人員の減少は激しく、同四十七年の大田原市の耕作人員は三三名、耕作面積は六・六ヘクタールで、滝岡、佐久山大神、福原、練貫などで作られているにすぎなくなったのである。