とうがらし

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とうがらしは南米原産で慶長年間(一五九六~一六一〇)に日本に伝わり、香辛料として利用されてきた。唐辛子と書き、蕃椒とも書いて一般化したが、種類によっては「ししとうがらし」「てんじくまもり」などといわれたものもあった。
 このとうがらしが商品作物として、大田原地方で栽培されるようになったのは昭和六年であって、吉岡源四郎が那須地方の農村に目をつけたからといわれている。昭和十年東京唐辛子商会を設立したころ、大田原町を中心として農家にかなり普及していったようで、金田村では一六町歩(一六ヘクタール)、野崎村では二町二反歩(二・二ヘクタール)の蕃椒が栽培されていたことが村役場に記録されている。
 昭和二十五年吉岡食品工業株式会社となったころ、大田原町では四八戸の農家が、金田村では一三三戸の農家が、一戸平均三畝歩のとうがらしの作付を行っていたのである。新品種「栃木三鷹」が同三十年につくられ、セイロン島向けの輸出が伸びるにつれ、栽培面積は増加し、同三十年(一九五五)大田原市の一五七町歩(約一五七ヘクタール)から同三十五年は二〇七ヘクタール、三十六年、二二四ヘクタール、三十七年には二三五ヘクタールと増反され、六一一トンの生産量があり、特に佐久山地区では畑地の三分の一がとうがらしで占められたとまでいわれるような全盛期となったのである。当時栃木県のとうがらし栽培面積は八九〇ヘクタールで、大田原市はその四分の一を占め、収穫でも県が二、五〇〇トンの生産量に対して、やはりその四分の一を本市は占めていたのである。

トウガラシ出荷風景(吉岡食品)

 その後同三十九年の二六七ヘクタールを最高として急減し、四十二年には一五〇ヘクタール、四十五年には五六ヘクタールとなり、五十年には一一ヘクタールとほとんどその姿をとどめないほどになってしまうのであった。これも時の流れであろうか。