幕末開港により輸出商品として八割方を占めた生糸生産は、那須絹の産地として知られた大田原地方の養蚕業を盛んにしていたのである。明治十九年(一八八六)蚕業集談会が県都宇都宮で開かれた時、大田原宿代表として内山秀安が参加し、蚕業振興のために尽力している。
同三十四年(一九〇一)の桑園面積は一八四町四反(約一八四・四ヘクタール)で、佐久山町の春蚕掃立枚数は一四八・七八枚(明治三十六年)で、佐久山町養蚕組合も作られ、繭の生産量は四五〇貫(一、六八七・五キログラム・明治四十四年度)あったのである。
親園村では同三十九年三月に養蚕組合がつくられ、各大字には、それぞれ、実取養蚕組合、滝沢養蚕組合、滝岡花園連合養蚕組合、宇田川養蚕組合、親園南区養蚕組合などが組織されていた。
野崎村では大正十年(一九二一)九七戸の養蚕家があり、二、六八九貫(約一〇、〇〇〇キログラム)あって、桑園は明治三十四年の約三倍の三三町四反歩(三三・四ヘクタール)に増加していた。
このような養蚕業の発達に伴い、大田原町では、大正十三年(一九二四)十月三十日より三週間に及ぶ大田原町役場主催の紬糸引出講習会を開催したりしている。この時の参加者は三五名であった。
しかし、このような発展も、昭和四年の世界恐慌を機に繭価は大暴落し、養蚕業は不振となっていくのであるが、これを金田村についてみると、昭和四年三九四戸あった養蚕家は同十年には二七〇戸と減少し、繭の生産高は同五年の一一、二七七貫(四二・二九トン)から同十年の五、九三九貫(二二・二七トン)へと半減し、販売金額は同四年の六一、八二九円から同十年の二〇、七七二円へと三分の一に減ったのである。
戦後の経済復興とともに養蚕業も復活していったが、昭和二十八年の佐久山町の養蚕家は八二戸で、春蚕の繭が一〇六貫(三九七・五キログラム)、夏秋蚕が九三六貫(三、五一〇キログラム)の収穫があった。金田村ではわずかに二四戸の養蚕家があり、三三一貫(一、二四一キログラム)の繭を生産したのみであった。
同三十年以降、養蚕家数は七〇戸前後であるが、桑園は同三十五年の一二・八ヘクタールから、同五十年の七三ヘクタールへと増加し、収繭高は同三十五年の六、五〇八キログラムから、同五十年の三六、四三〇キログラムへと増加し、稚蚕共同飼育による専業化が進んでいるのである。