(1)産馬

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 栃木県北地方は那須駒の産地として有名であるが、その歴史的展開過程の中で、常に中核的役割を果たしたのは、県北行政の中心地大田原であったのである。つまり、産馬組合の事務所は八木沢(親園)から大田原に移され、第二次大戦後に至るのである。しかし、本項で、それらの歴史的展開過程を逐一詳述することは紙幅の関係もあって不可能であり、詳しい資料等については、「栃木県史」(史料編・近現代五)を参照されたい。
 したがって、本項では、断片的ではあるが、大田原に関する関係資料を掲載して、産馬の概要としたい。
 江戸時代の幕藩体制期に、県北の各領主は産馬事業の推進策を図った。つまり、天領の八木沢(親園)、水戸藩領馬頭、烏山藩領烏山、黒羽藩領黒羽向町、大田原藩領大田原、芦野領芦野、宇都宮藩領幸岡(矢板)の七か所に幼駒競り市場が開かれた。しかし、これらはいずれも藩単位であって、これらを結ぶ組織的な統一連携は見られなかったのである(「那須郡誌」蓮見長著)。ただ個人的に経営手腕を発揮した人に、大田原鹿畑の人矢吹某がいた。彼は産馬に熱中し、自ら資を投じて種馬を南部(岩手県)から購入し、これが繁殖を図り、文化時代には駿馬二頭(薄紅梅・鞍置斑)を将軍家へ献じ、士分に取り立てられている(「栃木県産馬要覧」)。
 明治期になるや、東小屋の白井喜作・大田原親園矢吹真一(以上旧天領)、馬頭西山真太郎(旧水戸領)、烏山清水半次(旧烏山領)、黒羽高柳竹村(旧黒羽領)、大田原成田久八(旧大田原領)、芦野戸村謙橘(旧芦野領)、川崎植木六郎、玉生植木八郎(以上二人は旧宇都宮領)の九名は、塩那両郡の合同協議会を開き、「塩那産馬協同会社」を創立し、産馬の改良発達を図らんとしたのである。そして、同五年(一八七二)には「牧畜共同会社」が創設され、事務所を大田原の親園(八木沢)においたのである。ここに、本格的な県北における産馬事業の展開をみるのである。これは、同六年(一八七三)十月に「牛馬牧畜協同会社」と改組された。
 同会社は、翌七年には河内郡・上都賀郡の一部を加え、「塩那産馬協同会社」と改称し、種牡馬の供給をすると共に、産駒の競り市場を設けて事業の拡張を図ったのである(「栃木県史研究」11 玉城昌幸「下野産馬組合の展開過程」)。会社の経理は、幼駒売買高の一割を歩金として徴収し、その半額を県庁勧業課に預けて基金とし、残りを諸費用に充当するというものであった。同八年(一八七五)には勧業資金として、金一、〇〇〇円の融資を得て、岩手県南部地方の種馬三〇頭を購入し、生産者に貸し付け繁殖を図った。翌九年、明治天皇東北御巡幸の折、乙連沢の久野原に牝牡馬五〇〇頭を放牧して天覧に供したのである。
 競り市は春秋の二回各地で開設されたが、その場合、二歳牡馬が主であった。
 
     春糶(競り)市ノ部
  四月 十五日(旧二月二十八日)ヨリ 三日間  那須郡馬頭村
  四月 十九日(旧三月二日)ヨリ   三日間  塩谷郡矢板村
  四月二十三日(旧三月六日)ヨリ   三日間  那須郡親園村
  四月二十六日(旧三月九日)ヨリ   四日間  同 郡黒羽町
  五月二十四日(旧四月八日)ヨリ   三日間  同 郡芦野町
     秋糶(競り)市ノ部
  十月二十六日(旧九月十五日)ヨリ  三日間  河内郡大桑村
  十月三十日(旧九月十九日)ヨリ   五日間  塩谷郡矢板村
  十月二十八日ヨリ          三日間  那須郡芦野宿
  十二月八日(旧十月二十八日)ヨリ  五日間  同 郡黒羽町
(「栃木県史 史料編・近現代五」)

 また、明治十六年(一八八三)の「産馬並馬市方法概況」(「栃木県史 史料編・近現代五」)の中で、薬師寺馬市・茂木馬市・烏山馬市の三市は、
 
  全ク人民ノ私設ニシテ県庁ノ保護ヲ仰ガザルモノトス。
といい、芦野馬市・黒羽馬市・馬頭馬市・大田原馬市・親園馬市・矢板馬市・大桑馬市(河内郡)の七市は、
 
  人民ノ開設ニ係ルト雖ドモ官ノ保護ヲ仰グモノトス。
と記している。ここに産馬共同会社の半官半民の性格が浮き彫りにされているのである。
 なお、大田原馬市・親園馬市については、
 
  大田原馬市
   那須郡大田原宿ニ在リ、開市ハ春一季トス。馬数凡ソ二百頭ナリ。
   産馬協同会社ノ設置ニ係ル両野武総常諸州ノ馬商ヲ以テ之ヲ成セリ。
  親園馬市
   那須郡親園村ニ在リ、開市ハ春一季トス。而シテ大田原宿ト隔年之ヲ開クモノナリ。
と記載されており、大田原と親園の馬市は隔年だったことがわかる。しかし、この記録は同十六年(一八八三)のものであり、前期の春秋競り市の記録は十一年であり、大田原馬市は記載されていないところから、大田原馬市の開市は、十六年時点で追加されたものであろう。
 ところで、春秋競り市の記録をみると、経営不振となった同会社は、明治十年(一八七七)に事務所を県勧業課に移行して、当時の勧業課附属であった印南丈作・矢板武らが役員に委嘱されていることがわかる。つまり、この記録の一項に、「本社役員ヲ選定スル左ノ如シ」として、次のように記載されている。
 
  社長 印南丈作 副社長 矢板武 取締 矢口長右衛門外七名連記
  右之通相定候間、不相替陸続御来臨多少ニ限ラズ御売買相成度此段広告候也
   明治十五年三月
                                栃木県下野国那須郡親園村
                                       産馬協同会社
 このことは、県の管理から完全な民間会社として組織替えをしたことを意味するのであるが、十九年(一八八六)になると、一般にいう松方デフレの影響を受け、産駒の価格も暴落して、解散のやむなきに至るのである。その間、本会社は明治十二年には、売買頭数一、七八三頭、金額二〇、七二九円、同十三年には、同一、五三二頭、同二七、九三〇円というように、着々と成果を挙げていったことを見逃すことはできない。
 いずれにしても、明治初期における産馬奨励は、勧農政策の一環として実行され、その重点は産馬の改良増殖におかれた。すなわち、産馬の改良増殖のために優良種馬の輸・移入、官営種畜場の経営、産馬会社の設立、優良種馬の民間貸下げ等を遂行した(「栃木県史研究」11 前掲玉城論文)ところに、その特色があったのである。活発な官の保護政策のもとで、種馬の積極的な導入も行われていたようであり、次の資料にそれを見ることができる。つまり、洋馬の継続拝借願である。
 
     洋馬親園号継続拝借願
過ル明治十年度中本社ニ御貸下相成候洋馬牡馬メゲベン号ヨリ産出相成候二回雑種牝馬親園号ノ儀ハ曽テ御期約モ有之、夙ニ御返納可仕筈ノ処該馬ナルモノハ昨年五月中下総国独錮ノ牧ニ於テ交尾ヲ施シ、既ニ本年四月ニ至リ一頭ノ牝駒ヲ分娩ス。然ルニ該駒ノ儀ハ先般御届ケ及候通病ノ為メ斃死仕故ニ遂ニ返納ノ期ヲ失シ罷在候得共、熟考スルニ方今馬格改良方法計画中ニテ別紙胤馬拝借願ノ時ニ際シ従来飼養ノ雑種返納仕候テハ今後胤馬御貸下相成候共之ニ交尾ヲ施スノ牝馬無キニ於テハ所謂魚ヲ養フニ水ナキガ如キモノニシテ最モ不得策ノ至リト奉存候。依テ右親園号ノ儀従前ノ通御貸下御据置被成下度只管奉願候也。

 
   明治十七年八月
                               産馬協同会社社長 鮎瀬淳一郎
  栃木県令 三島通庸殿
(「栃木県史 史料編・近現代五」)

 那須疏水開削運動の急を告げた印南・矢板らはすでに役職を退き、伊王野の人鮎瀬淳一郎が社長に就任していることがわかる。
 種馬の積極的導入によって産馬の繁殖法をとった協同会社の時代は終り、明治二十年代は、官の督励も保護もなく、自然に任せた飼育が各戸において行われていたが、日清戦争を契機に産馬の気運は再び盛り上った。同三十三年(一九〇〇)の「産牛馬組合法」の施行で、従来任意組合に属し、弱体だった産馬組合の地位は強化され、各地において組合設立が促進されたのである。
 同三十四年(一九〇一)三月三十日、那須・塩谷両郡に産馬組合が設立された。那須郡産馬組合は事務所を大田原町三三五番地(場所未詳)に置かれ、組合の地区は那須郡一円とし、馬の生産に従事する者をもって組織したのである。事業内容は「組合定款」(第二条)によれば、次のとおりである。
  一、種馬を供給し及馬匹の生産を普及せしむること
  二、馬籍を設け馬匹の系統を登録すること
  三、糶(競り)市場を設け共同販売を行はしむること
  四、品評会、共進会其他講話会等を開催すること
  五、飼養管理の方法を改善せしむること
  六、牧場及牧草の改良を図ること
  七、伝染病及流行病の予防消毒其他一切の衛生を図ること
  八、去勢術の普及を図ること
  九、畜産物の利用を図ること
  十、産馬業上功労者の名誉を表彰すること
  十一、官庁の諮問に答ひ又は建議すること
  十二、前各項の外産馬業に関する有益の事項を実施すること
(「栃木県史 史料編・近現代五」)

 しかし、なんといっても、これらの事業の中核をなすのは、三の「糶市場を設け共同販売を行はしむること」であった。この市の盛・不況は、組合の運命を左右することになるのである。これらの競り市は、次の各地で開催された。
  馬頭   四月六日より六日間
  大原間  四月一日より三日間
  黒田原  四月十五日より三日間
  迯室   旧六月二十五日より五日間
  黒羽向町 旧十月二十八日より五日間
  沢    旧十一月四日より三日間
(「栃木県史 史料編・近現代五」)

 明治三十八年(一九〇五)十月二十五日、この那須郡産馬組合と塩谷郡産馬組合が合併して「下野産馬組合」と改称し、同三十九年から四十五年までの間に、購入馬は牝二六一頭、牡五二頭に上った。また、同四十四年(一九一一)には河内郡の一部及び上都賀郡の一部が加入するところとなり、大原間の競り市に替って、黒磯定期家畜市場の認可となった。また、大正元年(一九一二)十一月十四日付で、大田原家畜市場開設の件が認可され、大田原で当歳競りの開設となるのである。
 同四年(一九一五)八月一日、「畜産組合法」が施行され、下野産馬組合は、同六年四月一日付で、下野産馬畜産組合に改組された。これは、産馬の改良増殖に重点をおき、営利事業を廃止し、組合員は、任意加入から強制加入とすることであったのである。機能的にも、(一)組合員の委託による物品(種馬・器具・飼料)の購買配付、(二)共済の業、(三)競馬場の設置などで、強制加入を基盤として、その基礎も強化され、事業範囲も拡大した。同組合が大正六年(一九一七)四月から昭和十九年三月までの長期間にわたって、本県産馬の改良増殖に寄与したその功績はまことに大きいのである(「栃木県史研究」11)。十九年中に下野産馬畜産組合は発展的に解消し、地区を塩那両郡とし、「下野馬匹組合」と改称されていった。
 なお、下野産馬畜産組合の昭和十年六月までの役馬利用指導をなした家畜市場の実績頭数をみると、次の第21表のようである。
第21表 家畜市場の実績頭数
年度頭数
大正62,212
72,256
82,312
92,418
102,593
112,297
122,508
132,227
142,055
152,305
昭和22,243
32,132
41,893
51,897
61,975
71,848
81,840
91,497
101,608
(「栃木県史研究」11)

 これら産馬畜産組合の事務所は、大田原町一、八七六(現 新富町二丁目仲町公民館)にあって、各地の定期競り市等の事務に当たったのである。
 前述のように、「畜産組合法」の施行によって、競馬場の設置が唱えられたが、大田原においては、昭和三年に那須競馬が開催された。この競馬会の利益をもって組合の財源とし、ひいては、組合員の競り歩合金の率を下げ、あるいは馬事諸施設に対する助成をし、下野産馬の実をあげんとした。しかし、関東大震災から金融恐慌、そして、世界恐慌と続く不景気の波は、止まるところを知らず、大きく世界中の生活を揺れ動かす事態になったのである。
 ところで、この競馬場は、大田原市浅香町旧奥州街道西側六本松地内に設けられ、平坦で障害物がなく、地方競馬場としてはまれにみる良競馬場と称賛され、周囲は二、八〇〇メートルもあった。しかし、馬券売り上げは予想にまかせず、昭和七年の春季競馬を最後に小山町に移転し、新しく組織された栃木県馬匹畜産組合連合会の手に移ったのである。その後、この連合会の馬事施設への助成が順調に行われ、下野産馬畜産組合における種牡馬の借用は、組合もち四二頭、国有貸下種牡馬一八頭、個人もち二頭、その他国有派遣種牡馬二〇頭、計八二頭となった(「栃木県史 史料編・近現代五」)。
 第二次大戦後は、昭和二十二年に「農業協同組合法」の施行に伴い、同二十三年十月、下野畜産農業協同組合として新発足することとなるのである。
 いずれにしても、那須野の大地に根を張った産馬事業は、戦後、著しい衰退期に入っていくのである。しかし、那須地方が、大田原を中心に、下野における産馬事業の中核をなしてきたということは、那須地方の自然的条件に起因しているのである。つまり、那須野の大地は水利に恵まれず、原野が中心で開拓が遅れたこと。したがって農作物は畑作中心で、収入源に乏しかったこと。ここに重要な換金作物としてのたばこ栽培と共に、産馬は格好の換金事業であったわけである。ここに那須駒の産地としての基盤があったのである。