旧野崎村沢は那須野南部の馬市の中心地であった。その開設は明治二十年(一八八七)ともいわれ、吉沢治郎平(沢)なる者が馬匹改良に熱心の結果、設けたものである。開設当時はまことに盛大で売買馬匹数約一、〇〇〇頭以上、売買人や見物人など合わせると約三、〇〇〇人といわれ、宿屋二〇戸はいずれも満員で、大田原・矢板・佐久山などに宿泊する者も多かったといわれる。青森・岩手・山形・秋田・福島地方の人々は馬を売りに、長野・静岡・山梨・千葉の人々は主として買いに来たといわれ、加えて、県内の馬喰何百人が参集したという。多数集まるに乗じて、大田原・矢板などの商人が出店を出し、諸芸人が朝から笛・大鼓・三味線など引き鳴らして、曲馬も来れば、軽業・手品・見世物などもかかってにぎわった。そのほか、料理店や茶屋・女茶屋など臨時の町の盛り場ができたのである(「栃木県史」第九巻 田代善吉)。
沢の馬市は、
春 三月二十五日より三十一日までの七日間
夏 八月十五日より二十一日までの七日間
秋 十二月十日より十六日までの七日間
というように開設し、巧みに農繁期をさけているのは驚きである。近郷の農民たちは自分たちの母屋で大切に育てた若駒を競り市に出す前夜は、きれいに手入れし、家族で別れを惜しんだ。また、この若駒の収入が、農民にとって当時数少ない現金収入であり、帰路は家族の衣類や魚類など購入してくるのが常であり、馬市は那須野の農民の歓喜の日でもあったのである。
ところで、繁盛を極めた沢の馬市は、野崎駅拡張のための請願にも用いられている。
馬耕競技大会(昭和10年代)
当村大字沢ハ有名ナル馬市場ニシテ、年三回春夏秋各一週日ニ亙リ開催セラレ、矢板ヨリハ数百頭ノ発着アリ、当駅ニハ三四十頭ノ到着アルノミ。
沢市場ハ当駅駅勢範囲内ニアリ。距離約三粁ニ過ギズ。従ツテ当駅発着ヲ希望スル貨主相当アルモ、積卸「ホーム」ノ設備ナキタメ実現ニ至ラズ。右ハ至急該ホームノ設備ヲ待ツモノニシテ、完成ノ暁ハ右貨物ノ激増ハ明ラカナリ。
沢市場ハ当駅駅勢範囲内ニアリ。距離約三粁ニ過ギズ。従ツテ当駅発着ヲ希望スル貨主相当アルモ、積卸「ホーム」ノ設備ナキタメ実現ニ至ラズ。右ハ至急該ホームノ設備ヲ待ツモノニシテ、完成ノ暁ハ右貨物ノ激増ハ明ラカナリ。
(「野崎駅沿革」)
このように沢には、馬市創立五〇年記念の碑が昭和十年十二月に建立されている。
大田原地内を巡検すると、各所に愛馬をしのぶ記念碑がある。馬頭観音がその代表であるが、それらの中に混じって、「征馬之碑」(羽田)、「愛馬奉公碑」(下石上神社)などの日支事変記念のものがある。それらは、いずれも昭和十二・三年次に建立されている。戦争と軍馬は当時は深い絆で結ばれていたし、軍馬を精魂込めて育成して皇国に報えんとした農民が、わが子同様の馬の出征と武運を念じて、このような碑を建立したのも、また自然の成り行きであったろう。
ところで一種変った碑に「種馬記念碑」がある(北金丸頭無)。これは、県が岩手県から購入した南部駒で、一〇年間にわたりすばらしい受胎産駒率をあげ、その成績抜群であるので、感謝の意をこめて建立された碑である。産馬に生きる那須野の農民の一端に触れる思いがしてならない。
生駒之碑
県有種牡馬駒沢号昭和八年岩手県九戸郡ニ産シ仝十年本県ニ於テ種牡馬トシテ購買シ下野産馬組合ニ貸下ケ金田村小川金太郎管理ニ設定サル爾来借用ノ所受胎産駒共共ニ其成績断然優秀ニシテ品評会及共進会ニ於テ抜群ノ成績ヲ収メタリ茲ニ同志相計リ其功績ヲ永久ニ賛ヘンカ為メ生駒之碑ヲ建立セリ
昭和十八年五月二日
畜産共進会(昭和30年代)
太平洋戦争に突入すると、軍部は、軍馬の特別保護育成に乗り出し、「軍用保護馬」を農民に預け、若干の諸手当を配当して、育成・鍛錬させるという方策を採った。軍馬を預る農民は指導員という形で、上記のような月割手当が支給された。
第22表 指導員手当月割計算 |
(円以下切捨) |
区分 | 年額 | 月割額 | |||||||||||
12か月 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||
円 | 円 | ||||||||||||
壮及混班 | 35 | 35 | 32 | 29 | 26 | 23 | 20 | 17 | 14 | 11 | 8 | 5 | 2 |
同兼務班 | 20 | 20 | 18 | 16 | 15 | 13 | 11 | 10 | 8 | 6 | 5 | 3 | 1 |
幼駒班 | 20 | 20 | 18 | 16 | 15 | 13 | 11 | 10 | 8 | 6 | 5 | 3 | 1 |
同兼務班 | 12 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
(金田・第85) |
軍馬を預った指導員は、鍛錬用乗馬具を貸付けられたり、被服等を配給されたりしながら鍛錬に精を出すわけで、それらの総決算が宇都宮での鍛錬馬競争会であったのである。これらの事務等は、軍部より委嘱されている栃木県馬匹畜産組合連合会が当たったのである。
また、これら軍用保護馬の検定指定は三歳馬で、その中でも合格するのは最も油の乗りきった馬匹である。産馬農民は、これを誉れとし、その育成に精魂を傾注したのである。したがって、育成鍛錬した軍馬が、戦地に赴くため引き揚げられる時は、家族全員が泣きの涙で送り出したと伝えられている。