(2)産牛

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 那須野における産牛は、官立の那須牧場が那須東原字大輪地(黒磯市)に設置され、その先導的役割を果たした。産馬同様、産牛についても殖産興業の立場から、明治政府もかなりの奨励規定を設けていたのである。
     産牛奨励規定
(第一条)牛畜ノ増殖ヲ謀ランガ為メ、一町村若クハ一部落ノ農家十戸以上共同シテ一戸一頭以上ノ仔牛ヲ購入飼育スルモノニハ本規定ニ依リ補助金ヲ交付ス。

(「栃木県史 史料編・近現代五」)

 明治中期の那須郡の牛頭数をみると第23表のとおりで、この数字は、上都賀郡に次ぐものであった。
第23表 牛頭数
(那須郡)
明治2214453197
2317159230
(「栃木県統計書」)

 しかし、湧水地帯となる大田原地域は早くから開け、広大な牧場を設置できず、わずかに加治屋開墾(西郷農場(旧西那須野町))があるのみである。
 加治屋開墾牧場は、明治十五年(一八八二)五月一日に開場され、その面積は二〇〇町歩(二〇〇ヘクタール)に及び、頭数からみても、当時としては県内牧場の中でもかなりの大牧場であった(第24表)。
第24表 加治屋開墾牛頭数
飼養・貸付数場内飼養他へ貸付
明治1927128
2029130
2136137
2229130
2351152
(「栃木県統計書」より作成)

 しかし、その後の那須野が原の産牛についてみると、進展はあまりみられず、結局、産馬が常に主流となっていたのである。
 たとえば、昭和六、七、八、九年における金田村の牛馬頭数をみれば、それがうなずける(第25表)。
第25表 統計台帳
(金田)
種別
昭和69273
79272
89271
99270
(金田・第38)

 なお、大田原に川島卯之吉搾乳場があり、明治二十三年(一八九〇)の搾乳高は、五石七斗(一、〇五五キログラム)と記録されている(「栃木県統計全書」)。このころ大田原には屠殺場があり、牛馬が屠殺されているが、第26表のような数字が記録に見えている。
第26表 牛馬屠殺頭数
(大田原)
種別
明治1942
2012
211536
221456
232734
(「栃木県統計全書」明治22・23年)