牛馬を除いて、那須野において家畜として大きなウエートを占めるのは、養豚・養鶏であろう。明治の後期、千本松松方農場などで緬羊の飼育が大規模にみられたが、日本の多湿な気候風土には適さず、その産育は、結局は定着しなかった。ただ、自家用として、物資不足の第二次大戦時中から戦後にかけて、一部農家で一~二頭飼育していた例はみられた。昭和十一年に旧金田村では九頭の緬羊がおり、飼育農家は八戸であった(「金田村勢要覧」)。
同十五年の農林省畜産局が調べた記録に、県内緬羊団体二四組合あるが、那須地区では、鍋掛村緬羊組合(組合員一八、頭数七五)、黒磯町緬羊組合(組合員六三、頭数二三九)、狩野村緬羊組合(組合員三八、頭数二四)、那須村緬羊組合(組合員二六、頭数二三二)の四組合であった。大田原の旧町村にはなく、黒磯や那須方面が比較的盛んであったことがうかがえるのである(「栃木県史 史料編・近現代五」)。
次に養豚であるが、昭和六、七、八、九年における旧金田村の飼育数は、それぞれ二九、三〇、三四、二九匹という状況であった(金田・第三八)。なお、大田原地区での養豚組合は、昭和十年に野崎村養豚組合が設立されたが、同十三年段階での調査では、他の那須地区の町村には、まだ、組合が結成されていなかったようである。十三年次の野崎の組合員数は七〇名、匹数は五〇匹であった(「栃木県史 史料編・近現代五」)。
養鶏については、昭和十一年で二、二三五羽、飼養戸数五九一戸であり(「金田村勢要覧」)、これを飼養農家一戸平均にすると、三・八羽ということになる。これは収入を得るというのではなく、あくまでも自給的なものであったのである。
ここに明治三十年(一八九七)、大田原町屠殺場の資料があるが、牛が三八頭、馬が二四頭、豚は二匹である(大田原・第九八)。これをみてもわかるように、当時、まだ牛や豚の、とくに豚の精肉は、明治以後の食物でもあるので、現在のように一般家庭の毎日の食卓に登場したのではなく、特別の階層の人々の食べ物であったのである。それに対して、さくら肉といわれた馬肉が、比較的多いのに注目したい。
なお、養鶏については、第二次大戦前までの資料で家畜の中に入れない統計書が多く、また、昭和期に入っていても、その分類に実数が記入されていなかったりして、その実態を明らかにできなかったが、前述の旧金田村の資料では、昭和期に一戸当り三~四羽を自家用として飼養していたことがわかる。
また、山羊等についても、ほとんど無記入の場合が多く、その現況を把握できなかったが、そのことは、自家用としても、記録されるほど各農家で多数は飼育されていなかったという証左であろう。