農会

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明治二十年代(一八八七~一八九七)の農業振興策は、各地で開かれる農産物品評会や種苗交換によって進められたが、これらに参加した篤農家は、勧業委員の指導もあって次第に組織化されていった。明治二十四年(一八九一)八月には那須郡最初の団体ともいうべき「那須農友会」がつくられ、事務所が大田原町大字大田原一一一番地(元町二~一)に置かれたのである。
名称事務所位置創立年月役員名会員数経費
那須農友会大字大田原一一一番地明治二十四年八月幹事長鮎瀬善太郎一、〇六三名一〇〇円三〇銭
(「栃木県農業団体史」)

 このほか各町付にも農業団体が組織されていくが、肥料同盟会(小川町)といったり、農業改良組会(黒羽町)といったりして、その名称は不統一であった。県はこれら名称の統一の必要を認めて、明治二十八年十二月二十八日栃木県令第一一四号をもって「農林会設置準則」を定めた。これによって、「那須郡農林会」が設置され、町村には町村農林会が設立されたのである。
 佐久山町では、明治二十九年(一八九六)「佐久山町農林会」が設立され、初代会長に井上嘉之助が就任している。しかし、その活動については、見るべきものがなかったようで、同三十一年の役員改選には一人の立候補者もなく、役員消失という状況にあった。当時の事務報告書は次のように報告している。
 
  本町農林会ノ如キハ実ニ有名無実ナリ
(佐久山・第四四)

 明治三十二年(一八九九)「農会法」が公布され、県・郡・町村という系統農会が成立し、県農会の指導をうけた郡農会が各町村農会を指導することになった。「栃木県那須郡制史」は同年他郡に先んじて農事巡回教師を置いて、町村農会技術員講習会を開き、馬耕の奨励、犂の改良普及、緑肥栽培の普及、米・麦作の改良などを行ったことを記している。
 同三十八年の勅令第二二五号農会令により制定された「親園村農会会則」によると、事務所が親園村役場に置かれ、村内は大字ごとに農区とされ、農区には農区長と指導委員がおかれたことが記されている。
 
     親園村農会会則
  第一条 本会ハ親園村農会ト称ス
  第二条 本会ノ区域ハ親園村ヲ以テシ而シテ其事務所ハ親園村役場内ニ置ク
第三条 本会ハ本村住民ニシテ農業ヲ営ム者其他地所ヲ所有スル者ハ皆会員トナス而シテ又其会務ノ進捗ヲ期スルタメ区域内ヲ分チ左ノ八農区トス

第一農区 大字親園北区 第二農区 大字荻野目 第三農区 大字宇田川 第四農区 大字花園 第五農区 大字滝岡 第六農区 大字滝沢 第七農区 大字親園南区 第八農区 大字実取

  第四条 事業(略)
  第五条 役員(略)
  第六条 本会ハ各農区ニ農区長一名及指導委員二名ヲ置ク(以下略)
(「親園村郷土誌」 親園小学校所蔵)

 大正時代になると、農会は短冊苗代や正条植を奨励し、米麦の共同販売を指導するようになった。その結果、「大田原米麦共同組合」や「野崎村出荷組合」などが組織されるようになったのである。また「石上糯」「薄葉葱」が知られるのもこのころからである。
 以上のような活動をした農会も、昭和十八年三月「農業団体法」の公布によって、信用購買販売利用組合とともに一つに統一され、「農業会」とその名を変えてゆくのである。