信用購買販売利用組合

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 明治三十三年(一九〇〇)「産業組合法」が公布された。これは組合員である農家を中心に、信用・購買・販売・利用の四種のうちの一つ、または二つ以上の事業を行って、農家経済の振興・発展を図ろうとする農業団体である。これより先、自営農民は、不況不作による転落を防ごうとして、湯津上村品川信用組合に範をとり、同三十年七月には「佐久山信用組合」、同三十一年三月には「大田原町信用組合」が作られていた。明治三十六年度の産業組合概況によると三つの組合が記されている(第31表)。
第31表 産業組合概況(信用組合)
名称事務所設立許可年月日存立時期
出資一口金額
明治三十六年度末現在明治三十六年度事業
組合員数出資口数要項金額
無限責任佐久山信用組合佐久山町大字佐久山一三〇番地三四・五・二〇二〇五〇農一八九〇貸付 年 一割二分貸付 五、八二三
商七   日 三銭二厘
その他一貯金 年八分償還 一、三七三
合計二六
無限責任親園村大字親園信用組合親園村大字親園九五番地三六・六・一二四〇一〇
無限責任金田殖産信用組合金田村大字南金丸四六番地三六・九・一一二〇一〇貸付 年一割二分貸付 一八〇
貯金 当座五分受入   八
   定期年一割
(「栃木県史 史料編・近現代四」)

 明治三十九年(一九〇六)産業組合法の一部が改正になった。信用組合と他種組合との兼営を認めようとするものである。これによって各組合は組織の拡充を行った。「親園村郷土誌」によれば、同四十二年(一九〇九)十月四日「無限責任親園村購買生産販売組合」が組織され、組合員の生計に必要な物資の購買販売をなすとともに、組合員の生産した物品を販売しようとしたことが記されている。
 したがって取り扱う商品を保管する倉庫が必要となり、大正六年(一九一七)「農業倉庫法」の成立とともに、各地に農業倉庫がつくられていったのである。特に良質の米を販売するためにも必要なことであった。同八年「無限責任親園村信用購買販売利用組合」は農業倉庫一棟(石造四〇坪二、八〇〇俵入)を建設、同十三年には「有限責任野崎信用購買販売利用組合」が一棟(石造七二坪五、〇四〇俵入)の倉庫を建設したのである。
 同十五年(一九二六)四月県下産業組合大会が大田原町で開かれた。この様子について次のような資料が残っている。
 
 この大会は、本県に産業組合創設以来始めての大規模の催しで会期も二日間に亙り、会集千名を数え会場である大田原町はこのため後援会を組織し、西那須野駅前には歓迎アーチを作る等町を挙げて協賛し城山公園における宣遊会には美妓総動員でサービスに努める等、この二日間はまことに県北大田原は産業組合一色にぬりつぶされた、この大会は大正十五年四月大田原町の大田原高等女学校を会場とし、支会創立二十周年記念大会を併せ開いたもので、その後これを契機とし五年毎に大会を開く慣例をつくったものである。当日は中央より農林政務次官、同参与官(高田耘平)等その他関係諸団体より来賓多数が臨席されなお本県ゆかりの人として平田松堂画伯等も顔を見せ、県からは大塚知事吉田内務部長始め関係係員が出席した。

(「栃木県農業団体史」)

 これによって本県には昭和三年「保障責任栃木県購買販売利用組合連合会」がつくられたのであった。
 同七年産業組合拡充五か年計画が立案されると、信用・購買・販売・利用の四種事業の兼営化が進められ、「大田原信用購買販売利用組合」というように名称が統一されたのである。
 同十六年度末における各組合の状況は第32表のとおりである。
第32表 産業組合一覧
組合名設立年月日事務所組合長組合員
大田原信用購買販売利用組合昭和一三・八・三一大田原増渕音一郎三九九
親園村信用購買販売利用組合明治四二・七・二七親園渡辺正作五〇一
野崎村信用購買販売利用組合大正一三・一・二五下石上渡辺庄二郎四二四
佐久山町信用購買販売利用組合大正一四・六・三〇佐久山原蕃次郎五一八
金田村信用購買販売利用組合大正一五・五・一四中田原桜岡定蔵八三五
(「栃木県農業団体史」)