第31表 産業組合概況(信用組合) |
名称 | 事務所 | 設立許可年月日 | 存立時期 年 | 出資一口金額 円 | 明治三十六年度末現在 | 明治三十六年度事業 | ||
組合員数 | 出資口数 | 要項 | 金額 円 | |||||
無限責任佐久山信用組合 | 佐久山町大字佐久山一三〇番地 | 三四・五・二〇 | 二〇 | 五〇 | 農一八 | 九〇 | 貸付 年 一割二分 | 貸付 五、八二三 |
商七 | 日 三銭二厘 | |||||||
その他一 | 貯金 年八分 | 償還 一、三七三 | ||||||
合計二六 | ||||||||
無限責任親園村大字親園信用組合 | 親園村大字親園九五番地 | 三六・六・一二 | 四〇 | 一〇 | ― | ― | ― | ― |
無限責任金田殖産信用組合 | 金田村大字南金丸四六番地 | 三六・九・一一 | 二〇 | 一〇 | ― | ― | 貸付 年一割二分 | 貸付 一八〇 |
貯金 当座五分 | 受入 八 | |||||||
定期年一割 |
(「栃木県史 史料編・近現代四」) |
明治三十九年(一九〇六)産業組合法の一部が改正になった。信用組合と他種組合との兼営を認めようとするものである。これによって各組合は組織の拡充を行った。「親園村郷土誌」によれば、同四十二年(一九〇九)十月四日「無限責任親園村購買生産販売組合」が組織され、組合員の生計に必要な物資の購買販売をなすとともに、組合員の生産した物品を販売しようとしたことが記されている。
したがって取り扱う商品を保管する倉庫が必要となり、大正六年(一九一七)「農業倉庫法」の成立とともに、各地に農業倉庫がつくられていったのである。特に良質の米を販売するためにも必要なことであった。同八年「無限責任親園村信用購買販売利用組合」は農業倉庫一棟(石造四〇坪二、八〇〇俵入)を建設、同十三年には「有限責任野崎信用購買販売利用組合」が一棟(石造七二坪五、〇四〇俵入)の倉庫を建設したのである。
同十五年(一九二六)四月県下産業組合大会が大田原町で開かれた。この様子について次のような資料が残っている。
この大会は、本県に産業組合創設以来始めての大規模の催しで会期も二日間に亙り、会集千名を数え会場である大田原町はこのため後援会を組織し、西那須野駅前には歓迎アーチを作る等町を挙げて協賛し城山公園における宣遊会には美妓総動員でサービスに努める等、この二日間はまことに県北大田原は産業組合一色にぬりつぶされた、この大会は大正十五年四月大田原町の大田原高等女学校を会場とし、支会創立二十周年記念大会を併せ開いたもので、その後これを契機とし五年毎に大会を開く慣例をつくったものである。当日は中央より農林政務次官、同参与官(高田耘平)等その他関係諸団体より来賓多数が臨席されなお本県ゆかりの人として平田松堂画伯等も顔を見せ、県からは大塚知事吉田内務部長始め関係係員が出席した。
(「栃木県農業団体史」)
これによって本県には昭和三年「保障責任栃木県購買販売利用組合連合会」がつくられたのであった。
同七年産業組合拡充五か年計画が立案されると、信用・購買・販売・利用の四種事業の兼営化が進められ、「大田原信用購買販売利用組合」というように名称が統一されたのである。
同十六年度末における各組合の状況は第32表のとおりである。
第32表 産業組合一覧 |
組合名 | 設立年月日 | 事務所 | 組合長 | 組合員 |
名 | ||||
大田原信用購買販売利用組合 | 昭和一三・八・三一 | 大田原 | 増渕音一郎 | 三九九 |
親園村信用購買販売利用組合 | 明治四二・七・二七 | 親園 | 渡辺正作 | 五〇一 |
野崎村信用購買販売利用組合 | 大正一三・一・二五 | 下石上 | 渡辺庄二郎 | 四二四 |
佐久山町信用購買販売利用組合 | 大正一四・六・三〇 | 佐久山 | 原蕃次郎 | 五一八 |
金田村信用購買販売利用組合 | 大正一五・五・一四 | 中田原 | 桜岡定蔵 | 八三五 |
(「栃木県農業団体史」) |