保護政策の主なるもの
一、民林でも無断では伐採は許さない。
二、御立山(藩有林をいった)については樹木は勿論、枝葉下枝さえも、公共用以外には伐採を許さない。
三、下草を刈る際にも苗木を刈ってはならない。
四、入会地においても、各自が分割所有して、草木の根を掘り、または、唐鍬や鶴嘴で掘り立ててはならない。
五、野火については、人民一般の注意すべき事項を記載し、毎年正月、五月、九月、十一月の四回にわたって名主、組頭等を通じて百姓の会合の席上にて厳しく達しを出した。
六、万一、見遁し聞遁し知って知らぬふりをしたことが露見すれば、それは違法者と見做すこともあった。
藩有林の木材を藩の用以外に使用する場合についても、次のように記されている。
一、庄屋または組頭などの願いによっては風火災害をうけた樹木に限って、赤貧者に対して、小屋掛用として、最寄の官林から、一戸につき一五~三〇本程度を給与した。
二、道路、橋梁、堰堤などが破壊したときは、必要なだけの林木を下附した。
三、枯損木、風倒木などは、大山守、小山守において、本数、材積を調査し、極印を打込んで入札払下げをした。
薪炭林は輪伐法によって成長年数を計算し、区画を立てて入札し人民に売却した(以下略)。
(「栃木県の林業」)
また、これらの保護奨励に対しての罪を犯す者には処罰を厳しくした。材木を盗伐した者については禁獄し、その材木は没収して公売したり、元木代金を追徴したり、悪質なものに対しては科料に処したのである。刑罰も相当厳しいものであった。
明治維新後は藩有林はすべて官有林地に編入されたのである。明治二十二年ころの大田原市関係町村の官林について、「栃木県官林簿」より抜粋して、主なるものを第1表に記す。
第1表 大田原市関係旧町村の主なる官林 |
(明治二二年) |
字名(大字) | 官林種別 | 面積 | |
大田原町 | 上ノ山(大田原) | 一等官林 | 一七町七反二四歩 |
地蔵山 | 二等官林 | 一一町六反二畝一七歩 | |
富士山 | 風致官林 | 三反九畝歩 | |
親園村 | 宮脇(滝岡) | 風致官林 | 二反一畝二八歩 |
海道上(滝沢) | 員外官林 | 三畝二五歩 | |
立街道(〃) | 員外官林 | 四畝九歩 | |
佐久山町 | 陣屋後(佐久山) | 一等官林 | 五町三反二畝二四歩 |
芝山(福原) | 三等官林 | 一〇町五畝一二歩 | |
八幡上(〃) | 風致官林 | 三町四反六畝一八歩 | |
新田(大神) | 三等官林 | 九町六畝三歩 | |
金田村 | 新屋敷前(中田原) | 三等官林 | 四町六反八歩 |
鴻巣(練貫) | 三等官林 | 三町一反七畝八歩 | |
稲荷原(奥沢) | 風致官林 | 四町七反七畝二八歩 | |
中町(今泉) | 三等官林 | 一町一反六畝六歩 | |
下河原(〃) | 三等官林 | 二町三反三畝九歩 | |
西原(上奥沢) | 二等官林 | 一町二反七畝一五歩 | |
上谷地(〃) | 三等官林 | 三町歩 |
(「栃木県官林簿」栃木県立図書館所蔵) |
明治二十年代になると、幕府時代の山引苗挿木による造林から養苗による造林がなされるようになったのである。
那須野が原でも、大田原を中心とする南部地域は、平地林で成育のよいクヌギ等の人工林や天然林が多く、農耕地への落葉採取林として、農業生産に付帯的ながら重要な役割りを果たしてきた。農民はここから得る落葉や下草を自給肥料として利用したのである。また、成育のよいクヌギ、ナラ等の人工林や天然林は、薪・野州炭(木炭)の生産に大切なものであった。
このほか大田原を中心とする那須地方は、屋敷林や防風林としてスギ、ヒノキ林、自然林としてのアカマツ林も散在している。
第2表は、那須地方に分布する平地帯・奥地帯の主なる樹種を、「栃木の林業」よりあげたものである。
第2表 那須地方に分布する樹種 |
区分 | 主な樹種 |
平地帯 | スギ・ヒノキ・サワラ・アカマツ・モミ(天然林) |
クヌギ・カシワ・オオナラ・カエデ・ソネ(薪炭林) | |
エコ・ヤマザクラ・フヂキ(洋傘の柄・ステッキなどに用う) | |
奥地帯 | 広葉樹地帯――オオナラ・シデ類・ミズメ・トチ・カツラ・セン・サワグルミ |
針広混交地帯――モミ・ツガ・サワラ・ネズコ・ヒメコマツ | |
針葉樹地帯――サワラ・ヒメコマツ(区域は狭い) |
第2表中にみられる天然林のアカマツ林の多い地区として、大田原市では金田地区が最も多く、その他川西・東那須野・鍋掛・那須・高林の各地区があげられている。
林産物の主なるものは野州炭とよばれた木炭(黒炭)であり、木材としては杉板・ヌキ・電柱等で、薪は東京方面に移出していた。
昭和十一年の「産業統計報告書林野産物」金田村役場によると、樹実クリ二五升(単価一三銭)、樹皮スギ一、八〇〇坪(単価八銭)、竹皮二三〇貫(単価五銭)、シイタケ五〇斤(単価二円五〇銭)、タケノコ三〇貫(単価二〇銭)、木炭(黒炭)六六、九七八貫(単価一八銭)となっている。公私有造林用苗木については、個人及び会社有苗木商の項に、苗圃面積三〇〇坪、スギの苗木五千本、ヒノキ苗木二千本、クヌギ苗木三千本が報告されている。
次に本市関係の公私有林の伐採数量について、「北那須地域綜合開発計画調査資料」にみられる公私有林伐採数量累年比較の表から、昭和十八年から同二十二年までの五年間の用途をみると、用材としては針葉樹が多く、同十八年当時は大田原・親園地区が多く伐採されている。他の野崎・佐久山地区も類似している点はあるが、金田地区は同十九年から同二十一年にかけて伐採量が増加している。薪材・製炭原木としての伐採量は、針葉樹より広葉樹が各地区とも多いことがわかる。
全般的にみて伐採数量の累年比較から、市制施行以前当時でも、木材・薪炭材の生産は山林の多い金田村・佐久山町・野崎村・親園村・大田原町の順となっている。また伐採される用材林としては、普通スギ、ヒノキ、アカマツで、広葉樹としてはナラ・クヌギであるが、太いクリ・ナラ材は杭木にも使用された。
竹林については、同十八年から二十二年までの五か年間で、野崎村が同十八年に最も多量の伐採をしているが、その後の伐採量は減少している(大田原町は除く)。
以上が北那須地域の公私有林伐採数量累年比較及び樹種別伐採量に基づいた林業の実態であるが、第3・4表に表示してみる。
第3表 公私有林伐採数量累年比較 |
(単位 石) |
用材 | 薪材 | 製炭原木 | 竹林 | |||||
針 | 闊 | 針 | 闊 | 針 | 闊 | |||
大田原 | 昭一八年 | 一一、三六〇 | ― | 四〇 | 四〇 | ― | ― | ― |
〃一九年 | 四、〇四二 | 九九 | 四〇 | 四六 | ― | 八〇 | ― | |
〃二〇年 | 一、四四〇 | ― | ― | 一 | ― | ― | ― | |
〃二一年 | 一三〇 | ― | 七〇 | ― | ― | ― | ― | |
〃二二年 | 四〇〇 | ― | 九三 | 七 | ― | ― | ― | |
親園 | 〃一八年 | 一二、〇八七 | 三一七 | 一二〇 | 一六四 | ― | 三九三 | 四五〇 |
〃一九年 | 四、〇一四 | 五 | 一〇〇 | 二一〇 | ― | 三四〇 | 三五〇 | |
〃二〇年 | 四、〇一八 | ― | 三〇〇 | 一七〇 | ― | ― | 五〇 | |
〃二一年 | 三七〇 | ― | 二八 | 二三〇 | ― | ― | 二〇 | |
〃二二年 | ― | ― | 二〇 | 一五〇 | ― | ― | ― | |
野崎 | 〃一八年 | 三、七三二 | 八〇 | ― | ― | 六六〇 | 六六〇 | 四、七〇〇 |
〃一九年 | 三、二〇六 | 七〇 | 二九〇 | 一 | 五〇〇 | 六九〇 | ― | |
〃二〇年 | 一、五六六 | 三〇〇 | 一〇〇 | 五〇〇 | 五〇 | 二五〇 | ― | |
〃二一年 | 一、一〇〇 | 二二五 | 一〇〇 | 二四〇 | 五〇 | 三四四 | ― | |
〃二二年 | 一、一八〇 | 一三六 | 一六〇 | 四〇〇 | 五〇 | 二五〇 | 二〇〇 | |
金田 | 〃一八年 | 三、八一二 | 一五〇 | 二、二〇〇 | 四、六〇〇 | 五〇〇 | 二、〇〇〇 | 五〇〇 |
〃一九年 | 九、三〇〇 | ― | 一、二〇〇 | 二、〇〇〇 | ― | 一、六〇〇 | 一五〇 | |
〃二〇年 | 九、三〇〇 | ― | 一、二〇〇 | 二、〇〇〇 | ― | 一、六〇〇 | ― | |
〃二一年 | 一一、六〇〇 | 六二六 | 六〇 | 二一〇 | ― | 一〇〇 | 三八〇 | |
〃二二年 | 一、六〇〇 | ― | 三〇〇 | 九〇〇 | ― | ― | 九〇 | |
佐久山 | 〃一八年 | 五、六四五 | 一二〇 | 三〇〇 | 八〇〇 | 二五〇 | 三、七〇〇 | ― |
〃一九年 | 一、八五四 | ― | 二一〇 | 一三二 | 一、二〇〇 | 二、三二五 | 二〇〇 | |
〃二〇年 | 九五〇 | ― | 四〇〇 | 一一五 | 一、三〇〇 | 一、七二〇 | ― | |
〃二一年 | 三、八四〇 | ― | 八八 | 五〇 | 七五〇 | 三〇〇 | ― | |
〃二二年 | 一、一〇〇 | ― | 五九〇 | 一、二九〇 | 二七〇 | 一、〇八〇 | ― |
(「北那須計画地域の現況」第二部統計編) |
第4表 昭和二二年度樹種別伐採量 |
(単位 石) |
種別 | 針葉樹 | |||||||
スギ | マツ | ヒノキ | ヒバ | モミツガ | サクラ | その他 | 計 | |
大田原町 | 四六六 | 一〇〇 | 一、二七〇 | 一、八三六 | ||||
親園村 | 一、〇五七 | 一四八 | 二八三 | 七〇 | 一、五五八 | |||
野崎村 | 二七八 | 二二〇 | 一四二 | 六四〇 | ||||
金田村 | 四、〇六五 | 三、五〇五 | 二四九 | 一二 | 二二七 | 三〇 | 八、〇八八 | |
佐久山町 | 二、三八一 | 二、八六〇 | 四六八 | 一三七 | 五、八四六 |
種別 | 闊葉樹 | 合計 | |||||||
カシ | ケヤキ | ナラ | ブナ | クリ | キリ | その他 | 計 | ||
大田原町 | 一一九 | 四二二 | 五四一 | 二、三七七 | |||||
親園村 | 九 | 四一 | 二 | 五二 | 一、六一〇 | ||||
野崎村 | ― | 六四〇 | |||||||
金田村 | 五三 | 六 | 一二 | 四七 | 九〇 | 五 | 二一三 | 八、三〇一 | |
佐久山町 | 三三 | 三二 | 六五 | 五、九一一 |
(「北那須計画地域の現況」第二部統計編) |
造林についてみると、藩政時代より植林は行われていたのであるが、明治五年(一八七三)ごろ、大田原町上ノ山(現 山の手二丁目)一等官林払下げの一件があった際に、旧市政監御役所様宛に次のような書状が出されている。
乍恐以書付奉願候
私共親年来心掛天保十三壬寅年(一八四二)中ヨリ上ノ山欠続江戸堀東西南北ノ方ヘ杉桧仕立丹誠仕候処御上様ヨリ杉桧植付当人共ヘ壱人ニ付五百本ツツ之御切紙頂戴仕難有仕合ニ奉存候(以下略)
(大田原・第九八)
このことから藩主も植林について関心を寄せ、苗木を与えて、町人に植林事業を奨励したことが推察される。また、町村合併以前の地区として、佐久山町歳入出予算書綴(佐久山・第四〇)によると、明治三十八年から大正六年にわたり、造林についての予算が計上されているので、第5表に記す。
第5表 佐久山町歳入出予算決算書綴 |
年次 | 項目 | 金額 | 説明 |
明治三八年 | 山林苗植込費 | 二〇円 | 苗植込費 |
〃 四〇年 | 山林仕込費 | 二〇円 | 植込杉苗木仕込及下刈費 |
〃 四四年 | 山林仕立費・苗木植込費 | 七五円 | 陣屋後山林仕込苗木及植込人夫賃 |
大正元年 | 財産管理費・樹木補助費 | 一〇円 | 字陣屋後杉下払手間一二円五〇銭・同所杉補植人夫賃五〇銭 |
〃 四年 | 臨時部造林費 | 一二六円 | 町有土地植林補植費 |
〃 五年 | 財産管理費 | 一五円二五銭 | 樹木補植費五円二五銭・苗木千五百本但千本三円五〇銭 |
〃 六年 | 基本財産造成費・樹木補助費 | 三〇円 | 苗木五千七百本・三円・一七円一〇銭、二円九〇銭運搬費 |
(佐久山・第四〇) |
以上のことから、佐久山地区ではすでに明治後期から大正前期にかけて、植林事業の予算が計上され、杉苗等を陣屋後等に植林し管理されており、これらの樹木は町の基本財産造成のために、手入れ撫育がほどこされていたことがわかる。
佐久山町有林下刈(福原町有林)
また、金田村庶務綴(金田・第二一一)によると、愛林日施行に関する件として、岩手県の高田営林署よりケヤキの苗が送られてきているので、次にその通知書を記す。
昭和十二年造第七〇九号
昭和十三年四月十四日 青森営林局 印
栃木県那須郡
金田村長殿
愛林日施行ニ関スル件
四月十日付庶一二五〇号ヲ以テ願出ニ係ル愛林日植栽用ケヤキ苗木ハ左記ノ通リ交付可致候御了知相成度此段及通知候也
記
一、樹種 けやき一年生苗木九十八本
二、交付営林署 岩手県気仙郡高田町高田営林署
三、経費関係 交付苗木ノ運搬賃ハ貴村ニテ負担セラレタシ
四、其他 苗木発送ト同時ニ高田営林署ヨリ貴村宛其旨電報通知ス
(金田・第二一一)
大田原市では金田地区・佐久山地区が比較的林野面積の多い地区であるので、旧町村時代においても、植林事業は町村の基本財産になるべきものとして、早くから着手されていたのである。
今次の町村合併前後には市部分林・学校部分林・市有林等の植林が盛んに行われている。昭和四十二年「広報大田原」にも市内福原山王の市有林で植樹祭がとり行われ、二・五ヘクタールの市有林に、スギ七、二〇〇本、ヒノキ五、三〇〇本が植林されたことが記されている。なお、市には市有林が二九・七六ヘクタール、部分林が三〇・四四ヘクタールあり、これらには造林計画に基づいて植林撫育していることを報じている。
市の部分林は黒羽町にあり、昭和二十九年から同四十二年にかけて、スギ・ヒノキが植林されている。市有林については、合併以前の旧町村時代の同十四年から四十一年にかけて、スギ・ヒノキ・クヌギ・マツ等が植林されている。
一方、戦後の食糧不足を契機に、畑や山林の開田が同三十年頃から始められた。最初はその方法も人力によるものであったが、その後ブルトーザーが使用されるようになり、作業は急速に進展して能率化が図られた。同四十年ころになると、地下水利用による揚水ポンプの普及とあいまって、開田は著しく増加して、畑地や山林が水田となり、水稲が栽培されるようになったので、本市でもかなりの山林が開田され、山林面積は減少しているのである。
同五十一年栃木県林務観光部の「高原地域林業振興計画」によると、県北の森林地帯は、地形・地質・気候等の自然条件の相違や林業経営の特性等から、高原山塊(矢板市・塩谷町・塩原町)・高林山地(黒磯市旧高林地区)・那須野が原(黒磯市旧高林地区を除く、大田原市・西那須野町)の三地帯に区分し、長期の林業・観光の発展のために行政指針としての策定がたてられている。大田原市はこの那須野が原南部地域の中心として、典型的な内陸性の気候により、冬は季節風が強く、低温で乾燥が激しい土地なので、樹木は古くからアカマツ・コナラ林型が保たれ、僅かに屋敷林としての防風林のスギが造林されているとしている。
また平地林はクヌギ・ナラ等が農業生産と付帯して、落葉採取林としての役割りを果たしていた。なお、高度経済成長による土地の流動化が急激に進み、林地の宅地化、農地や牧野への転用に伴って、自然林が次第に姿を消しつつあるのが現況のようである(栃木県林務観光事務所資料)。