(前略)
伐り出された材木は、集荷所である肝煎(きもいり)宅で役人の検査を受け、検査が通れば運搬にかかるのであるが、これには街道筋の村々から狩り出された農民が、馬車・荷車を使って荷造りし、次々と甲村から乙村へ送り継いで行く「村継ぎ」と称する陸送の方法と、鬼怒川の上平(うわだいら)河岸から舟または筏に組んで流す「川下げ」の方法があった。
伐り出された材木は、集荷所である肝煎(きもいり)宅で役人の検査を受け、検査が通れば運搬にかかるのであるが、これには街道筋の村々から狩り出された農民が、馬車・荷車を使って荷造りし、次々と甲村から乙村へ送り継いで行く「村継ぎ」と称する陸送の方法と、鬼怒川の上平(うわだいら)河岸から舟または筏に組んで流す「川下げ」の方法があった。
(「栃木県木材史」)
「大田原藩記」によると安永元年(一七七二)二月江戸藩邸類焼にかかる時、新築用材の調達は上郷で下道具用材、上道具用材は祖母ケ井村(芳賀町)で選択し、塩谷郡阿久津河岸より運送したと記され、馬一匹につき下屋柱三寸六分角(一〇・九センチメートル)八尺三寸(二・五二メートル)のもの四挺を一駄としたとある。大田原藩も当時は同じように木材の輸送には、馬車や荷車が使われたものと考えられる。「川下げ」の方法は、阿久津河岸から舟送りまたは筏に組んで運ばれたのである。
明治期の木材輸送についても資料は乏しく、「栃木県木材史」から本市に関係ある明治十年代(一八七七~一八八七)の材木運賃の項をみると、同十四年(一八八一)二月「原方板荷物受払帳」があげられている。それによると、那須郡上石上(旧野崎村、現 大田原市)から成田(旧野崎村、現 矢板市)までの牛馬による運賃が記述されている。
記
那須郡上石上から成田まで、馬
松板十四束 賃 四十五銭五厘
塩野崎荷請 上石上村 牛
松板二十四束 賃 一円三十銭
遅野沢より成田まで
松板十六束 賃金一円
松板十二束 賃金七十五銭
杉板二十束 賃 七十銭
(「栃木県木材史」)
したがって、牛馬(主として馬)が荷車をひくか、直接背にのせて木材の輸送に当たったものである。
運賃について同書は「松板三十六束、馬二疋外二名、計九駄」であるということから、当時は一駄は四束積みであったようで、四束積みで馬一駄二五銭ぐらいであろうとしている。牛の場合は馬の運賃とは異なっていたようである。距離をみると、上石上から成田までは中間に箒川が流れているので、約一〇キロメートルはある。
また、木材の筏流送として、明治中期から大正・昭和初期にかけて、野州材として、那珂川河岸から筏流しが行われていたと「栃木県木材史」には記されている。
明治十九年(一八八六)ころになると、鉄道が白河まで開通し、更に同二十三年には大田原―西那須野塩原道が完成したことなどもあって、以後、木材輸送は鉄道によることが多くなるのである。「栃木県木材史」によると、宇都宮・矢板・西那須野駅等から、木材が貨車で積み出されるようになり、駅までの輸送は馬子に代って荷馬車が出現し、明治・大正・昭和初期にかけて、荷馬車は輸送の花形であったのである。
昭和十年ごろまでは、荷馬車の車輪は木製で、大きな車に鉄の輪がかかったものであり、砂利道をガラガラ音を立てながら馬がひいたものであったが、このころ自動車のタイヤに代ったのである。
運賃については、荷馬車の輸送費は明治三十五年(一九〇二)では、板一駄につき黒羽より西那須野駅まで一四銭で、同三十七年には二銭安くなり一二銭になった。筏では、黒羽河岸から水戸まで六銭で、水運の方が大変安かったというのである。また、同三十五年には黒羽より黒磯まで、板一駄の荷馬車賃は一五銭であったと記されている。
次に貨車による運賃であるが、同四十五年(一九一二)ごろ貸切貨車七トン車で、西那須野駅から東京隅田川駅まで板貫一車を輸送して、二三円四九銭かかった。また、同じころ、約五〇〇円の材木代の運賃が、西那須野から東京深川まで五七円余かかったという。このころから筏による輸送はなくなり、鉄道や荷馬車に代ったのである。
大正七年(一九一八)になると、東野鉄道が開通し、それによる木材輸送も始まった。
昭和二十五年、「北那須計画地域の現況」より、東野鉄道大田原駅および金丸原駅、東北本線野崎駅から発送されたトン数調べ、同二十三年度に各種の輸送品目等の記録があるが、木材関係のみ第20・21表にあげる。表をみると、薪・木材が金丸原駅・大田原駅から、毎月貨車積みされて消費地へ送られた。
第20表 昭和二三年度東野鉄道発送トン数調 |
(単位 トン) |
月別 | 一月 | 二月 | 三月 | 四月 | 五月 | 六月 | 七月 | |
大田原駅 | 薪 | 六〇 | 一七五 | 二〇〇 | 三二五 | 七〇〇 | 六〇〇 | 一四五 |
木材 | 六二一 | 七一五 | 四八二 | 六一九 | 四七七 | 二七四 | 二四四 | |
金丸原駅 | 薪 | 二三七 | 二六〇 | 三五一 | 二三四 | 二一七 | 二一五 | 二七二 |
木材 | 六一七 | 九八三 | 一、一六一 | 五五一 | 八五八 | 六二七 | 三九五 |
月別 | 八月 | 九月 | 十月 | 十一月 | 十二月 | 計 | |
大田原駅 | 薪 | 四六〇 | 一四五 | 四〇五 | 一三五 | 一〇 | 三、三六〇 |
木材 | 二八九 | 二一五 | 三一二 | 九〇 | 二五〇 | 四、六〇八 | |
金丸原駅 | 薪 | 三七二 | 二四二 | 七二四 | 七五 | 一〇 | 三、二二九 |
木材 | 四四五 | 四〇八 | 五六七 | 二三五 | 二六六 | 七、一一三 |
(雑・第六) |
第21表 北那須地域駅別品目別貨物発送トン数調(抄) |
(単位 トン) |
野崎駅 | 木炭 | 薪 | 木材 |
昭和二三年四月~昭和二四年三月 | 七〇 | 一、三三九 | 五、九四〇 |
(雑・第六) |
一方、東北本線野崎駅からも木材・薪・炭が貨車に積まれ、鉄道輸送されていたことがわかる。木材の輸送はこうして鉄道が主力となり、馬車は駅までの小出しを受持った。
しかし、戦後の昭和二十年代の耐乏生活から、高度経済成長時代に入り、道路の整備、東北本線の複線電化と、交通機関もその輸送に関して急速な発達をとげた。同三十年以降になると、道路の整備とあいまって、自動車交通の発達は目覚しく、バスによる旅客の輸送やトラックによる貨物の輸送が急激にのびてきた。また、一般家庭用の自動車数も次第に増加してきた。
こうした種々の原因によって、旅客・貨物ともに鉄道利用は減少した。国鉄野崎駅でも、貨物取扱いの減少と一般貨物取扱いの統合化によって、一般家庭や丸通扱い等の貨車積みの貨物扱いは、同三十七年四月十五日をもって廃止された。現在は、会社専用の引込線による貨物の取扱いのみで、薪炭・木材等の輸送は行われなくなった。
東野鉄道も旅客の乗降は減少し、貨物輸送もトラックにおされて、五七年間走り続けた西那須野―黒羽間の鉄道路線は廃止となった。
したがって、本市の木材輸送のほとんどは、鉄道輸送からトラック輸送へと移っていった。