第一節 概観

471 ~ 483
 大田原市域における水産業は、那珂川水系の箒川・蛇尾川を中心に展開されているわけであるが、戦後はこれら河川による漁業のほかに、内水面養殖の発達を見るのである。
 いうまでもなく、大田原市域の水産業が、市産業全体に占める割合は、内水面養殖の伸びと共に、大きく変容しつつあるのが現状である。
 これら河川漁業と内水面養殖とを主体に、本市の水産業を本編で扱うわけであるが、特に本節では、町村合併前までの農間余業(副業を主体)としての戦前までの河川漁業と、魚貝類の養殖の概況を一瞥(いちべつ)してその概観としたい。
 さて、本市河川漁業の中核である箒川は、本市の西端から南部を貫流して、小種島で蛇尾川と合流し、小川町で那珂川本流に注ぐ河川であるが、明治二十七年(一八九四)の「野崎地誌材料調」によると、次のように記されている。
箒川ハ幹流ニシテ其源ヲ遠ク塩谷郡塩原鶏頂山麓ヨリ発シ山間ノ谿流ヲ併セ南流シテ箒根村ヲ経テ本村ニ入リ上石上、下石上、薄葉、平沢ノ五大字ヲ貫キ咲山町大字滝沢ニ入ル 其流急ニ水清ク浅キハ一尺五寸深キハ四、五尺其幅最狭ノ所ハ七間最広ノ所ハ三十八間水浅ク流急ナルヲ以テ舟揖通行ノ便ヲ欠クトイエドモ沿岸地方則上下石上、薄葉、平沢、沢、豊田等ノ各大字数百項ノ田圃ヲ灌漑浸潤ス故ニ本流ハ利益ヲ与フル重大ニシテ実ニ本村ノ富源ト謂フベシ該流ハ淡水ナルヲ以テ淡水魚夥ク四季共ニ漁魚ノ利アリ其ノ魚類ノ重ナルモノハ年魚(アユ)、鰻(ウナギ)、〓(ヤツメウナギ)、鰍(カジカ)、其他雑魚等ナリ

 ここに記されているように、「淡水魚夥ク四季共ニ漁魚ノ利アリ」で、箒川沿岸の農民は副業として魚漁を行っていた。それは「野崎地誌材料調」に、
 
  村内皆農家ナレハ元来耕作シテ食ヒ織リテ衣亦余暇ヲ以テ車馬ノ力ニ依リ薪炭其他荷物ヲ運搬シ或ハ箒川沿岸ノ住民ハ魚漁ヲ以テ生計ヲ営ム
とあることによってわかる。
 明治二十二年(一八八九)の記録に、那珂川関係町村の漁人調べがあるが、これらはいずれも兼業で、次のような数字が記されている。
 
  高林村     三人
  東那須野村 二十四人
  那須村   八十七人
  鍋掛村   四十二人
  伊王野村  二十二人 (漁船)
  川西町   百十一人   九
  黒羽町    九十人  十二
  湯津上村  四十三人   三
  両郷村   四十三人   六
(「栃木県統計書(全)」明治二二・二三年)

 市域の場合、支流の箒川が主体であるが、野崎・佐久山・親園などは、当然、当時、那珂川関係町村に劣らない副業漁人がいたと推測できる。彼らはいずれも、アユ・ウグイ・ウナギ・コイ・サケ・マスなどの天然魚を漁獲し、自家消費のほか出荷していたが、上流ではイワナ・ヤマメなども漁獲できた。
 昭和期に入ってからであるが、本業・副業の登録人数は、金田地区の場合、第1表のようになっている。本業(専業)としているのは、昭和五・六年を除けば七人であり、副業としている人が圧倒的多数である。しかし、副業の人も同六年を境に激減していることがわかる。これは多分に昭和初期の昭和恐慌時に、副業として河川漁業に従事する人が増加したという推定からすれば、七年以降の激減も理解できる。
第1表 金田地区の漁人数
業別本業
(人)
副業
(人)
昭和3年7115
47110
58115
68115
7769
8760
9762
(金田・第38)

 野崎地区の同十二年の場合、やはり専業はなく、副業として三二戸が戸数職業別表に掲げられている(野崎・第六)。
 それでは、市域の副業としての魚貝類の養殖(内水面漁業)が、いつごろから始まったのか、それらについて記録的には不明であるが、昔から水溜や水田、とくに湿田等での魚貝類の養殖は、自然発生的に行われていたであろう。ここに、金田地区の昭和三年から九年までの養殖従事人数があるが、いずれも副業で、一三~一五人が行っている(金田・第三八)。野崎地区の場合、第2表のように、同十一年で、水田一か所、養魚池二か所でコイの養殖を行っている。
第2表 コイの養殖
(野崎地区昭和一一年)
養殖場数面積
水田三〇〇
養魚池二〇
(野崎・第六)

 水田の養鯉については、太平洋戦争後の荒廃から立ち上り、開発を推進するために、県北地区の諸統計調査を行った「北那須計画地域の現況」(雑・第六)があるので参照されたい(第3表)。例えば、親園地区の場合でみればわかるように、水田養鯉をする人は、昭和十九年に一六人であったのが、二十年には一一〇人、二十一年には一五〇人と激増して、二十三年には五〇人と激減している。金田や佐久山地区の場合も、二十二年に一〇人、七〇人であったのが、それぞれ一〇人と激減していることがわかる。つまり、この水田養鯉は、一時的なブームであったが、二十三年以降衰微していくのである。それは、終戦直後の食料難の時代を背景にして、動物性蛋白質の補給源として、資本のかからない水田養殖を一時的に行ってみたが、結局、利あらず衰微していくのである。
第3表 水産漁獲高累年比較
No.1
町村名aサケ(単位 貫)
昭17181920212217
大田原町
親園村16151525
野崎〃
4湯津上〃4295012023
5川西〃105
6那須〃600
7鍋掛〃159
金田〃5
9黒磯町2035
10東那須野村
11狩野〃
12西那須野町
13高林村
14塩原町132
15箒根村
a 開発地域小計635915565129815
佐久山町2530
17上江川村
18黒羽町
19須賀川村
20両郷〃88253650300
21伊王野〃152630
22芦野〃
23小川町720720
b 附帯地域小計221335562501,02030
a+b 計画〃 合計8519270671151,148845
県合計2,4581,5146882,3455,6253,2503,053
○印大田原地区
 
bマス(単位 貫)c其の他
1819202122171819202122
4743
17171748512360100100
212
9103,9123,260712570280170
2020320680690610240
500151,060802020
203020016022537030
30101107
352011011812012030
 
 
 
 
50678
900115
6117230307,3304,8601,8701,240890668
20954,8083,6503,550
100
3,1756601,2401,1301,3252,030
20
68631225260495256194390
17510675130
28041020020135
15504501,3251,8701,4001702,525
103225122571010,1987,7806,7761,3441,4955,080
714297125574017,52812,6408,6462,5842,3855,748
1,8551,5742,0592071,039129,22673,16153,62029,18038,10531,866
(雑・第6)

第3表 水産漁獲高累年比較
No.2
町村名漁獲高合計(a+b+c)
昭1718192021
大田原町4743
親園村22011715560100
野崎〃212340
4湯津上〃3,9773,290712230340
5川西〃320700700456
6那須〃1,6605801520
7鍋掛〃200160225405
金田〃101137
9黒磯町145153140120
10東那須野村
11狩野〃
12西那須野町
13高林村
14塩原町638
15箒根村900115
a 開発地域小計8,2085,5071,9471,086985
佐久山町4,8084,1953,675190
17上江川村100560
18黒羽町3,1956601,2405701,325
19須賀川村20
20両郷〃63334419675
21伊王野〃555675147
22芦野〃28041020020
23小川町1,3251,9051,450170
b 附帯地域小計10,2638,4987,0561,5361,570
a+b 計画〃 合計18,47114,0059,0032,6222,555
県合計135,24776,26955,47233,54343,937
○印大田原地区
 
水田養鯉(単位 貫)
221617181920212223
30206045
100151611015050
666340
2904810030
240171016020
2015
692253024
20251211010
30
7
10
1260
 
15
60231320
74960127286143401335269
7010
174720030
2,030141
5075100
950
25122401
135253083411
3,69534230
6,810392565597620152
7,55963219342198498955421
36,6551135143,0193,0851,3003,6544,9246,002
(雑・第6)

 ところで、箒川の魚種は、他の河川と同様に余り多くない。主なものは、前述のようにアユ・ウナギ・サケ・マス・コイ、その他雑魚で、その漁獲高は昭和七年の佐久山地区の場合に、第4表のような記録がみられる。
第4表 佐久山地区漁獲高
(昭和7年)
品目数量金額
kg
サケ二二五・〇四八・〇
マス二二・五二四・〇
アユ一、三三五・〇一、八二五・〇
コイ四八七・五二〇・〇
ウナギ三七五・〇六〇〇・〇
(「那須郡郷土地誌資料」佐久山小学校所蔵)

 野崎地区の昭和十二年の漁獲高の報告書をみると第5表のようである。
第5表 野崎地区漁獲高
(昭和12年)
魚類数量価格単価
アユ九二三六八四・〇〇
コイ一六二・三〇
ウナギ五二一七二三・三〇
其の他一五〇二二五
三〇一七八一
(野崎・第6)

 いずれにしても、漁獲高の主体はアユである。また、第4・5表の漁獲高の数値は、公式に報告のあったものだけであろうから、実際の沿岸地域住民の漁獲高は、まだまだ計り知れない多量なものであると推定できる。昭和十一年の「産業統計報告書綴」(野崎・第六)によると
 
  前年ヨリ漁獲高減少セルハ、溯上期ニ水量少ク、秋期ニ至リ数回ノ大増水アリキニヨル
とあり、サケ・マスの漁獲高の不振を分析しているのも面白い。しかし、大田原市域でのサケ・マス漁は昔から少なく、那珂川水系でもサケ・マス漁は中・下流域の芳賀地域や茨城県に入ってから盛んになるのが常である。
 河川天然魚の漁獲法は種々さまざまであるが、個人の漁獲法としては、釣がその代表格である。しかし、魚種によって異なってくるのが当然である。
 ドジョウをとる「ドジョウうけ」、フナをとる「だるまうけ」をはじめ「網漁」がみられる。網漁の場合、共同で行う場合も多い。昭和の初期ごろ盛んに行われた「はね網」(鵜な引き)などもその一例である。
 
二、三〇間(四、五〇メートル)の荒縄に柳の葉を枝ごと折ってはさむ。その縄を四、五人で、川の中を裸で引張り川下へくだる。そのとき網持が、五、六人川の中に入る。網を引くと柳の葉が光るので、鮎が跳ねる。それを網でうける。網は二、三メートルの長さで、幅が一メートルか、一メートル半位あろうかと思われる。網の下の方は袋になっていて、そこに入った鮎は、逃げられないようになっている。別に魚籠(びく)持ちが、河原を歩いていて魚を溜める。

(「ふるさと雑記」黒羽町教育委員会)

 しかし、これらの漁獲法は、現在ではみな規制されている。そのほか、水中に網を張ってくぐるのでは「マチ網」、広い網を水中に張り、魚を追い込む「オイコミ」など種々ある。一般には、鉛のついた網を傘状に開いて水中に投げ込む投網が、現在個人で行う漁獲法では、最も親しまれている。そのほか、雑魚などをとる「ブッチ」の活用、「ヤス」を利用した漁獲法など、枚挙にいとまがないが、ここではアユの漁獲法の代表である簗について、多少の記録もあるので紹介してみよう。
 明治三十五年(一九〇二)の佐久山町の「往答書類綴」をみると、現在でもそうであるが、簗は当然、河川管理者に申請をして許可を得るという手続きをとっている。
   築設置願絵図面
那須郡佐久山町大字大神地内字藤山下無番
一 堀敷反別 壱畝拾八歩
右之通相違無之候也
  明治三十五年五月廿七日
                                那須郡佐久山町大字佐久山
                                    願人 阿久津勇二印
                                 佐久山町長 原蕃次郎 印
  栃木県知事 殿
(佐久山・第二九)

 なお、簗の設置については、「最小流幅五分ノ一以上魚道ヲ開通スルコトヲ要ス」(往答書類綴)と設置条件をつけながら、一定の様式により漁場図を提出させている。前記「築設置願絵図面」は、平面図のみであるが(第1図)、実際には、第二号様式で、第2図のような漁場図を提出することになっていた。

第1図 簗設置図


第2図 簗設置絵図面
(佐久山・第29)

 現在市域には、五つの簗(箒川四、蛇尾川一)が設置されているが、これらについては第二節の河川漁業の項で触れることとする。
 以上、市域の昭和二十九年町村合併前までの水産業の概略を一瞥してきたが、大田原市域における水産業は、農閑期の副業として成り立っていたといってよい。しかし、以後、戦後の余暇社会の観光ブーム等の余波の中から、本格的な養鱒などの内水面漁業の時代を迎えることになるのである。それと同時に、河川における釣人口の爆発的な増加のみられる新時代の中で、現在、どのように河川漁業の管理や内水面漁業が行われているか、次に見ることにしよう。