下野国(栃木)に進出して来た商工業人の中には、江州日野(近江(滋賀)商人)・越後(新潟)及び常陸(茨城)・上州(群馬)の順で出店し、主に「酒造」を業とした。特に日野商人は元禄・宝永年間(一六八八~一七〇四)から明治におよんでいる。大田原地方にも数名が出店しているのである。
次に記すのは、「栃木酒のあゆみ」(栃木県酒造組合)から大田原市に関係する醸造業について抜粋したものである。
醸造業
島崎酒造株式会社
酒銘 「友白髪」昔は「花の宿」
沿革 天明元年(一七八一)滋賀県日野町より当地に来り、清酒製造業を創立。
脇村酒造株式会社
酒銘 「鳳鸞」
沿革 明治初年に滋賀県より栃木県親園村に移住し、醤油、清酒の製造を創業、その他、土木工事等の事業も営む。昭和七年大田原に移住
池島酒造株式会社
酒銘 「池錦」昔は「池泉」
沿革 明治四十年十月一日新潟県刈羽郡上条村より那須郡野崎村下石上に移り、永井勝造氏の蔵を買受けて、酒造業を営む。
平山酒造店
酒銘 「藤の盛」「栃錦」
沿革 明治四年旧八月二十八日、黒羽県支配所より醸造鑑札を受けて創業する。
乍恐以書付奉願上候
羽田村平山助右衛門奉申上候、農間に清酒醸造仕り度候に付、当未年造高百三拾石、新規株御鑑札御下げ被成下度奉願上候、御定税上納可仕儀に御座候、
右願之通り仰付被下置候はば難有仕合奉存候、以上、
明治四年辛未八月
黒羽県支配所
下野国那須郡
羽田村 平山助右エ門
組内 平山亀右エ門
名主 平山清左エ門
黒羽県藩知事 大関増裕殿
(平山家文書)
この願書によって許可されると、次のような 清酒造鑑札が交付され、濁酒・醤油にも同様のものが用いられた。
清酒には、清酒造り鑑札のほかに、その年の「造高免許鑑札」が交付された(「栃木酒のあゆみ」)。
鑑札の大きさは程村(ほどむら)六ツ切(「程村」紙の名称)
造高免許鑑札(雛形)
島崎酒造株式会社の明治三十四酒造年度は、左記のとおりである。
明治三十四酒造年度
一所在地 那須郡佐久山町大字佐久山百六十六番地
一清酒醸造高 四百七拾六石(八、五八五・六キロ)
一蔵敷 百三十一坪 (四三二・三キロ)
一建坪 百弐十坪 (三九六平方メートル)
一棟数 壱棟
一職工 九人
一酒名 友白髪
一営業者 島崎覚兵衛
(佐久山・第一一〇)
明治時代に「醸造業」を営業した近江商人の四代目中井源三郎三保、その子五代目源三郎のとき、店舗を他人に譲渡したが、この時代に大田原で製造した醤油・味噌に使用された塩の消費量は第1表のとおりである。
第1表 塩ノ消費調査(明治三二年中) |
区別 | 製造工場名 | 用途 | 塩ノ消費高 | ||
塩ノ種類 | 数量 | 価額 | |||
食品製造用 | 岡力蔵 外弐名 | 醤油製造 | 本斉田塩 | 六百七拾石 | 千八百六拾円 |
岡力蔵 外壱名 | 味噌製造 | 同 | 弐拾三石 | 七拾五円 | |
小計 | 六百九拾三石 | 千九百三拾五円 | |||
合計 | 六百九拾三石 | 千九百三拾五円 |
(大田原・第七九) |
これは中井支店、那須郡大田原町三八三番地(現在地不明)岡力蔵から大田原町役場に提出された報告である。大正時代になると、中井合名会社、中井商店は次に記す会社に権利を買収されたのである。
大田原酒造株式会社
大正六年十一月資本金五万円を以て創立せられたるものなり、当時中井合名会社の権利一切を参万五千円にて買収し、二千余石を醸造したり、大正八年十一月弐拾五万円となし、醸造石数三千石以上に達す、銘酒菊の里の名声は実に嘖(サク)々たるものなり、現支配人森谷鉄三郎氏
関東醸造株式会社
大正九年五月の創立なり、キッコウ東醤油の醸造元たる当会社は、中井商店を買収したるものにて、醤油醸造石数三千五百石余りなり、取締役社長小口融四郎氏
大正六年十一月資本金五万円を以て創立せられたるものなり、当時中井合名会社の権利一切を参万五千円にて買収し、二千余石を醸造したり、大正八年十一月弐拾五万円となし、醸造石数三千石以上に達す、銘酒菊の里の名声は実に嘖(サク)々たるものなり、現支配人森谷鉄三郎氏
関東醸造株式会社
大正九年五月の創立なり、キッコウ東醤油の醸造元たる当会社は、中井商店を買収したるものにて、醤油醸造石数三千五百石余りなり、取締役社長小口融四郎氏
(「大田原小誌」)
「亀甲東」醸造元である関東醸造株式会社は、現在の山の手一丁目地内にあり、大きな煙突が同会社の目印であったが、昭和三十年代に取り壊された。その工場の施設は近代化され、石油エンジン原動力や、コンクリートの醗酵タンクなどを具備し、同業者の注目をひいたものである。
関東醸造株式会社(長谷川渉氏提供)
同業者の中には地元の事業家も多くいたのであった。これらを年代順にあげると、慶応年間(一八六五~一八六八)創業の「和泉屋」(中央一丁目)で、現在でも江戸時代そのままの古い看板をかかげている。味噌・醤油を製造し、「キッコー京」の商品名で県内・外に販売されている。
下野醤油株式会社は、明治四十年(一九〇七)四月の創立で、現在地は中央一丁目宇都宮法務局大田原支局・聖家幼稚園・ズイコーマンションの敷地一帯である。醤油・味噌を醸造し、「フジウメ」の名で県外にも販売された。同時に酒類をも販売したのである。
販売された清酒「一徳」は明治三十五年(一九〇二)、那須郡金田村練貫に、「下野酒造合資会社」を組織し、酒類醸造販売を営み、明治四十五年(一九一二)四月十日に本店を小山町(現 小山市)に移し、金田村を支店とした。下野醤油株式会社社長は、猪股眞三郎であり、一徳の社長は猪股槇之助である。
新酒造之儀ニ付
願 第三大区七小区
阿久津脩斉
栃木県令 鍋島幹殿
(阿久津モト文書)
〈表紙〉
書面製酒検査之儀時宜見計
官員巡視候条製酒出来ノ期
限兼而可届出置事
明治八年八月二十五日
二十一年十一月自家用料醤油製造石高調
石数 家内人員 壱人石数 町村名 姓名
三石九斗 二十六人 壱斗五升 大田原宿 成田忠之
右之通候也
那須郡大田原宿外一ケ村
戸長 神田貞
明治二十一年十一月二十三日
栃木県那須郡長 安藤小次郎殿
(大田原・第四九)