川田工業株式会社

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川田工業株式会社の誘致に際しては、市内加治屋川田定吉によって、昭和三十二年七月十六日に市当局に話が紹介され、早速市長・助役・総務課長・土木課長の四氏で極秘のうちに話を進め、七月十九日付をもって市当局の要望と富山工場見学予定の文書が送付されたのである。その返書は次のとおりである。

川田工業株式会社野崎工場・昭和38年(川田工業提供)

今月初旬私の那須帰郷より始まったものにて、昨年頃より急に工場敷地の狭隘を感ずると共に、北陸本線も電化復線工事は米原方より進行しつつある現在ですが、地理的に見て当地は東京・大阪より遠く、原料の入手、製品の発送等輸送上の隘路に、加えて冬期に於ける積雪も仲々侮り難きものあり、為に本社工場は現状迄として、東京・大阪に近き交通至便なる表日本方面への進出計画が、社長の意図することを存じていたものですから、このことをたまたま那須の父に話したるところ、御貴殿初め、上司の方々の御熱意の程により、市当局の工場誘置に対する積極的なる御配意を得まして、只々恐縮至極に存じここに厚く御礼申し上げる次第です。
 次に弊社の概要に就いて申し上げますと、営業課目は土木・建設・鉄骨・橋梁・機械の多岐に亙り、主なる受註先は、国鉄本庁・岐阜工事局・金沢鉄道局・富山・石川県当局等があり、製品の納入先は殆ど全国に跨っております。
 従業員一四九名、臨時工四四名
 年商額 約三億位です。
尚御地へ進出の上は、東京・千葉・高崎・水戸・仙台各鉄道局・新橋工事局(以上国鉄関係)その他各県方面へも受註開拓を図る所存です。
 次に弊社工場の見学に就いて、御計画ある由、是非御光来賜ります様、偏へにお待ち申し上げます(七月二十一日付)。

(川田工業株式会社所蔵文書)

 この返書は川田和雄より土木課長宛に送られ、なお社長の来庁日程が示され、その視察後の返信は市長より送付されたのである。
 
  大土発第八三号
   昭和三十二年九月二十五日
                                   大田原市長 益子万吉
  川田工業株式会社
   社長 川田忠雄殿
   工場敷地について
 貴工場敷地取得については当市総務課長並に土木課長が、貴工場視察後直ちに着手すべきところ、当市未曽有の水災害に逢着、帰庁以来之が応急復旧対策に寧日なきため心ならずも延引いたし、誠に申しわけなく深くお詫び申し上げます。過日、塚本順佑殿の御催告を頂き、衷心より恐縮した次第であります。その節強く言明しましたとおり、現在着々土地所有者と接衝中であり、市当局・市議会及び地元有志一丸となって土地所有者を説得しておりますので、おそくも十月初旬までには、取得のメドも本極りとなるべく何卒後便を御期待して頂きたくお願いいたします(以下略)。

 大田原市へ誘致の工場敷地の問題が解決を見ない最中、西那須野町より川田工業株式会社に、工場設置に伴う敷地の提供がなされた一幕もあったのである。西那須野町としては、次の三か所の候補地を提示した。
 
  第一候補地 国峰砿化工業株式会社隣接地
  第二候補地 工場敷地跡(東京の鉄工場疎開後)
  第三候補地 旧競馬用の馬の飼育所
 以上のような情勢の中で、川田工業株式会社では、大田原・西那須野の両方の現地視察が行われたのである。その出張報告書は、次のとおりである。
 
  十月四日
○先月来大田原市が野崎敷地取得に就いて難関に逢着してより、町議会人や民間人が押掛けてホトホト閉口した。

○土木課長・野崎支所長と野崎当社誘致事務に、区長の印南正造氏を訪ね、四者にて打合せ意見交換をなす。

○現場を見る地続きの西那須野寄りに、五、六反歩の田地あり、これを含めて約五町歩(五ヘクタール)なりと、佐藤氏は今次の第一回土地取得の契約書を取るのは此の田地を除いてあると、結局反当値段は一反歩十万円の由。

   市は登記面積数にて買入れる。実測すれば余分のものが出る予想なり。
○市役所へ行き小針助役・君島総務課長・加藤市会議長に面接する。

○第二案土地の件と、西那須野町当局が、大田原市の難関逢着を機に、一挙に西那須野へ引っ張って終う可く猛運動を展開したのが、土地所有権への妙薬となって野崎敷地問題好転の動機となった。

○明六日十三時より市役所に於いて誘致特別委員会を開催し、終ってから野崎支所にて土地提供の内約書を集める予定。

  十月六日
○西那須野町より産業課長が迎えに来る。役場で町長・助役・議長に面接する。候補地を見学させて貰う。

第一候補地 引込線二百メートルなるも敷地全部農地なること、敷地内に住宅三戸、隣接にて住宅相当あり見込みなし。

○第二候補地 戦時中の疎開工場跡にて現在桐の植樹あり、概ね平坦にて整地の要なし、引込線千メートルの他は誠に好適地なり。

○第三候補地 元馬場の跡は駅附近より側線用地を調査するに立除家屋相当数あること、本線に対して田地になり居る用地が二・三メートル高台となって居り、到底側線敷設困難と見て現場見学を思い留まる。

(川田工業株式会社所蔵文書)

 川田工業株式会社誘致と相まって、大田原市議会では「工場誘致条例」が急ぎ制定されたのである。
 条例の内容は八条から成り立っているが、第一条は目的、第二条 奨励措置、第三条 指定手続、第四条 指定の基準、第五条 奨励措置の承継、第六条 奨励措置の取消又は停止返納、第七条 審議会、第八条 綱目、等の内容である(昭和三十二年七月十九日議案第一五号)。
 なお、用地の取得等については、次のような文書が残されているので、次に記す。
 
  大土発第一〇八六号
  昭和三十二年十一月十二日
                                   大田原市長 益子万吉
  川田工業株式会社
   川田忠雄殿
   野崎工場敷地の取得について
 先日取敢えず電報しておきましたが、野崎工場敷地についてその後、所有権者と交渉の結果、貴社御希望の第一案のとおり、末尾記載の敷地の取得承諾を得ましたので、改めてお知らせいたします。つきましては、左記の件について御了承方お願いいたします。
   記
一、敷地区域の実測(市土木課が行う)
二、側線布設の為の調査(貴社)
三、実測図に基く工場設置計画図(貴社)
   (これは地主に立木伐採させる都合上必要です。)
四、工場設置に関する市との契約案検討今月二十日頃市会議長・総務課長・土木課長が本社にお伺がいいたしたいのですが、これについての、貴社の御都合をお知らせ願います。

五、工場敷地として取得了解済の土地表示(第一案の図面に基く左記の地番とす)
  土地の表示(省略)
   計 三町七反三畝九歩
 
昭和三十二年十一月十二日

                          富山県東砺波郡福野町〓島四六一〇番地
                                        加藤宇一郎
  大田原市役所
     小針助役殿
 
  拝啓 晩秋の候益々御多祥の段大慶に存じ上げます。
偖而先日は用地買収問題第一案通り円満解決との電報を頂き、皆様の並々ならぬ御心労に対し厚くお礼を申し上げます。当社も理想的な第一案用地が解決しよろこびに耐えません(以下略)。

(川田工業株式会社所蔵文書)

 
 なお、野崎工場勤務の社員は、地元より採用されたのである。この時の雇用者見込数は男子七名で、雇用条件は、野崎付近通勤可能者、試用期間六か月、強健にしてスポーツを行う者で視力が一・二以上、学歴中卒以上、給与四、〇〇〇~五、〇〇〇円、また採用者出社日時は、昭和三十四年三月二十五日午前八時であったのである。
 川田工業株式会社の沿革は、次のとおりである。
 
大正十一年富山県東砺波郡福野町四六一〇番地個人経営川田鉄工所を創立し、発電所建設工事関係の鍛冶・製鑵・鉄骨・橋梁工事に従事。
昭和二十一年国有鉄道の車輌部品・軌道用品の製造・各種輸送機・橋梁鉄桁・鉄骨の設計製作・私鉄電動客車の改造・修繕工事を行う。
昭和二十二年より土木建築関係工事を請負う。
昭和二十七年七月個人経営を法人組織に改め、川田工業株式会社となる。
 
川田工業株式会社栃木事業部
 所在地 栃木県大田原市下石上一七八〇
 創立  昭和三十三年四月
 資本金 一五億五六五〇万円
      (東京、大阪証券取引所一部上場)
 従業員 四〇〇人
会社の概要
 当社は建設省・国鉄・各都道府県・道路公団等より発註の鋼橋梁・PC橋鉄骨・構造物の設計・製作並びにこれらの組立・建方架設等の工事を営み、又建築工事及び橋脚・橋台・橋面補装等の土木工事も施工しているほか、新事業のプレビーム・ごみ処理プラント等の研究開発も行っております。

(「七五・企業ガイドブック」)


第2図 川田工業株式会社野崎工場敷地