現在の大田原市街地の商店街の濫觴を知るすべはないが、往時の状況を知るものとして、「大田原宿町並図」(「市史前編」)がある。これによると正徳三年(一七一三)にはすでに奥州道中沿いに西南端、江戸口より新田町(三〇軒、うち明屋敷四軒)、下町(五一軒)、仲町(三九軒)、上町(三六軒)、寺町(六〇軒)、大久保町(四一軒)および荒町(四七軒)、合計三〇四軒の町屋敷が形成されていた。これは、現在の商店街とほぼ同じ地域である。
くだって、天保十四年(一八四三)には、宿内総戸数二五四軒、人口一、四二八人(男六七二、女七五六)となっている(「奥州道中宿村大概帳」市史前編)。これを同時期の奥州道中の宿駅と比較すると次のようである。
白沢 七五軒
氏家 一七〇軒
喜連川 一五五軒
佐久山 一二八軒
鍋掛 六八軒
越堀 四二軒
芦野 八一軒
(「下毛野村分」佐野・大川家旧蔵)
これによると、大田原宿は、戸数において隣接する佐久山宿の約二倍、鍋掛宿の四倍弱であり、まさに当下野国内の奥州道中第一の城下町兼宿場町の規模をもっていたことがわかるのである。
一方、佐久山宿は、規模こそ大田原宿よりは小さいものの、箒川右岸の宿場町として栄えた。とくに、佐久山宿の場合の目立った特色は、家数一二一軒のうち旅籠屋が二七軒(全体の約二二パーセント)を占めていることである(天保十四年「市史前編」)。大田原宿の場合の二四五軒中四二軒(約一七パーセント)であることからも、この宿の特色がうかがえよう。
現在、大田原市の二つの商業地域は、このような歴史的背景のもとに形成されたものであるが、これらの地域の江戸時代における商業活動の詳細についてはつまびらかでない。