明治三十二年(一八九九)ごろに発行された「日本鉄道案内記」によると、西那須野駅の項には「大田原産納豆は味美なり。」とあり、野崎駅については「此附近すべて薪炭の産地とす。」と記されている。
これよりさき、江戸時代末、文化・文政時代には、「大田原下町の小泉屋の左官職、竹内吉五郎が作られた野州奴っ子凧は仲々有名なので、江戸地方まで売り出された。後には、荒町辺でも作られて、此地方の在々に売り出し、徳川時代より明治初年頃まで、子供の冬の遊戯の一つにせられ、山間僻地にも奴っ子凧のうなりが聞えたものである。」(「栃木県史」九巻 田代善吉)という記録がある。また同書によると、明治初期には大田原焼という陶器があったが、間もなく廃されたとも伝えている。
その他、同じころ、大田原、荒町には菰市があり、湯津上・黒羽方面の農家で副業として生産された菰が、原方地方の煙草農家に供されていた(前掲「栃木県史」)。
これらの玩具・陶器・わら製品等の生産・流通・消費についての実態を知ることはできなかったが、商品および経済等の主流となるべきものではなかったかと推測されるのである。
その他、明治中期の特産物および商品としては、金田地区のショウガ(これは、旧暦八月十五日の那須神社祭礼には土産物として売り出され、現在でもその名残りをとどめている。)や、市内各地区にみられる酒・醤油などの醸造、佐久山の薬なども各地に知られていた。
このように、江戸時代から明治期にかけての本市における主要な流通物資は、食料品・農産加工品であったが、それらの生産・流通・商圏等については知ることができなかったのである。
なお、地誌編纂材料取調書(雑・第八)には、明治初期の大田原町の商業類別の記録が記されている。それによると当時約一〇〇種の職業が分類されているが、その主なものを参考までに記す。
小間物商・砂糖商・酒類商・金物商・菓子商・材木商・穀物商・海川魚商・炭商・煙草具商・荒物商・石油商・菜種商・下駄商・青物商・茶商・提灯商・陸送業・醤油商・質屋・畳商・旅籠屋・飲食店・木羽屋根葺・仕立商・料理店・鬢付油商・蝋燭商・銅細工・古道具屋・染屋・水車営業・煙草製造業・仲買営業・小売業・牛馬売買営業・按摩営業・産婆・貸座敷・猟銃・証券印紙売業・大工・石工・印判師・氷商・車大工・塗物師・綿打職・荷鞍職・傘張職・表具職・桶工
などが挙げられている。
そうした中で、在来の大田原商人に大きな刺激を与えたのは近江商人の進出であろうが、これについては後に述べる。