「市」の成立 大田原の「市」の起源を明確に示した資料は未発見である。「関東市町定日案内」(「桐生市史」上)には、今市・烏山に次いで大田原の市が記載されている。この案内(番付表)の製作年月日は不詳であるが、渡辺一郎の研究によれば、明和~安永期(一七六四~一七八〇)のものと推測されている。したがって、大田原の市は少なくとも明和以前に成立していたと考えられる。
ここに、大胆な推論が許されるならば、全国的に見て、室町時代には、各地に「座」と「市」が簇生していることと考え合せると、大田原の場合も、築城後の早い時期に、城下町の形成とともに開市されたものではなかろうか。
なお、奥州道中 「大田原宿宿方明細書上帳」(文化~文政(一八〇四~一八二九))によると、
一 宿内市之儀 六斎
但 弐 七 初市ノ義ハ正月十二日ニ御座候
とある。これによると、大田原の「市」は初市以外は、毎二、七日、月に六日間開市されたいわゆる六斎市であったことが知られるのである。
前記番付によると、第一位の大関は上州桐生、関脇には同前橋となっている。本県の場合は、宇都宮が前頭三枚目で最高位、以下足利・鹿沼・佐野・烏山・大田原の順に記載されているのである。
暮市・不動市 いずれも旧荒町通りで開催されたといわれている。暮市は、明治末まで行われていたが、のちに不動市にかわったとも伝えられているが、その間の事情については不明である。旧荒町通りに不動尊を祀って開市されたものである。
花市 一般に、その年の最初の市日を初市といっているが、大田原・佐久山をはじめ県北一帯では、花市と呼んでいる所が多い。「ハナ」は「初め」を意味し、これを「花」にあてたものであろう。
大田原の場合、一月十二日と定められ(前出「大田原宿宿方明細書上帳」)、最初は仲・下町通りで行われていたが、明治二十七、八年ごろ、寺町通りの商店主衆がその株を買いとり、寺町通りに移した。昭和五十一年以後は寺町通りから、市役所バイパス通りに移されて、盛大に実施されている。
花市は、市神をまつり、商売繁昌を祈願して行ったものであるから、現在でも市神を中心に露天商が出店する。露天商の業種により出店する場所も定められており、市神に近い所は、神棚・神器・福達磨・縁起物などと神に関係したものが並べられている。
菰市 前にも触れたように、菰市も荒町通りで開市され、大正五年(一九一六)まで続いたようである。この菰市については次のような史料がのこされている。
藁市之義ニ付願
従来當大田原宿荒町之義者藁市ト称シ、藁、菰、莚、縄等毎月二、七之日ヲ以テ各村ヨリ物品ヲ賣買之為メ持参相成然ル所街路取締リ御規則御布達相成候得共何居宅中ニ於テ者物品賣買上ニ差支候間荒町西側ニ於テ軒下ヨリ弐間通リ別紙図面ニ倣ヒ毎市日午前八時ヨリ午後四時迄之間街路ヘ相掛リ附落シ仕度奉存候 尤モ片側ニシテ往来之妨害不相成注意仕候間御許可被成下度此段奉願上候以上
那須郡大田原宿
荒町惣代
安田房吉
柏原六蔵
明治廿年十二月廿七日
大田原警察署長
栃木県警視 緑川末昭殿
従来當大田原宿荒町之義者藁市ト称シ、藁、菰、莚、縄等毎月二、七之日ヲ以テ各村ヨリ物品ヲ賣買之為メ持参相成然ル所街路取締リ御規則御布達相成候得共何居宅中ニ於テ者物品賣買上ニ差支候間荒町西側ニ於テ軒下ヨリ弐間通リ別紙図面ニ倣ヒ毎市日午前八時ヨリ午後四時迄之間街路ヘ相掛リ附落シ仕度奉存候 尤モ片側ニシテ往来之妨害不相成注意仕候間御許可被成下度此段奉願上候以上
那須郡大田原宿
荒町惣代
安田房吉
柏原六蔵
明治廿年十二月廿七日
大田原警察署長
栃木県警視 緑川末昭殿
(大田原・第八三)
これによると、菰市は藁市とも称していたこと、毎月、二、七日に荒町通りにて行われていたこと、各村々の農民が手工業製品を持参して来て売買していたこと、少なくとも明治二十年以降も行われていたこと、などが推測することができるのである。
ところが、前述のように大田原の「市」も江戸時代以来二、七日に開市されていたわけである。したがって、二、七日には、藁製品に限らず、各種の商品が売買されていたものが、明治初年には藁製品を主とする「市」になったと考えられる。これが、やがて、定着した店舗が増加するにしたがい、規模・業種・開催日などが減少し、ついには現在の花市のみが、年の初めの市として、往時の形態をのこすに至ったものであろう。