そうした行商人の一人に、近江国蒲生郡日野の中井清一郎(のち、中井源左衛門光武)がいる。彼の祖父は、日野塗の製造・販売を行い、相当手広く行商をしていたが、父、光治が死亡する(享保一〇年 一七二五)により、家運は急速に傾いていった。
一九歳になった時、清一郎は、同じ日野商人、相坂半兵衛に伴われて、初めて関東方面に行商に出た。彼は、相坂半兵衛に商法を学びながら、上総・安房・武蔵・下野・常陸から甲斐・信濃にまで行商先をひろげている。そして、延享二年(一七四五)のころには、下野・越堀宿に出店を設けるにいたった。この越堀店での活動内容については、不明な点が多い。おそらく、寛延二年(一七四九)に大田原出店が開設されることにより、それに吸収されたものと考えられるのである。
大田原は奥州街道(道中)沿いの小さな城下町・宿場町であるが、奥州出入の要地でもある。光武は、早くからこの地に着目していたことがうかがわれているが、ついに寛延二年(一七四九)、この地に出店するに至った。やがて、中井家は、この大田原出店を拠点として、商域を地方に拡大し、さらに行商中心の商法から、店舗中心の形態に転換していったのである。
江戸期近江商人の出店(「士農工商」4平凡社)
この大田原店では、開設当時は合薬・太物・小間物などの販売を行い、やがて、薬種も取り扱うようになった。また、開店の前後には、地元の塩屋勘右衛門と共同で質屋を営んだ記録がのこされている。さらに、古手(古着)・繰綿などの販売もはじめている。一方、現地で仕入れて上方へ送った物には、蚕種・生糸の他、苧・大豆・紅花などがあった。
その後、宝暦七年(一七五七)には、上野国邑楽郡小泉に酒屋を設けて大田原店の枝店とした。出店の出店を枝店と呼んだが、大田原店の枝店としては、さらに磐代国白河にも設けられたと記録されているのである。
大田原開店以後の約二〇年間は、中井家の成長期であり、前記のように、この間に、従来の行商中心の形態から店舗中心形態に移行する時期であった。取扱商品の種類も複雑・多様になり、質店・酒店を兼営し、ここを拠点として、北関東から奥羽南部へと商域を拡大していったのである。
中井氏寄進の石灯籠(大田原神社)
明和二年(一七六五)には、枝店として本宮店を開設し、さらに明和六年(一七六九)仙台出店を開店、その資産七、四六八両二分、当時発行された日本長者番付にもその名を載せるに至った。その間、大田原本店は、明和二年、いったん閉鎖し、同七年(一七七〇)に再開している。この間の事情については、未詳であるが、この閉鎖と相前後して、前記二店が開設されていることから見ると、機構上の変化があったものと推察されている。
寛政六年(一七九四)、光武は引退し、家督を二代目源左衛門光昌に譲り、寛政九年(一七九七)には遺産の分配を行った。大田原関係の諸店(総資本金約一万両)は長男源三郎尚武(源三郎は仙台店におかれたが早逝したので、本家・仙台店は次男光昌が相続し、二代目源左衛門となる。)の遺子りよの聟養子光儔(とも)に与え、源三郎の名をつがせた。これが後年の大田原中井源三郎商店となっていくのである。