前記のように、日野の商人中井本店は、大田原を拠点とし、その商圏を東北地方にのばしてゆき、わずかのうちに日本有数の豪商となった。その後、仙台店・京都店が中井家の中心となり、さらに各地に出店を増していったのである。
しかし、大名貸の金融業をはじめたところ、仙台藩への貸金二五万両が明治維新により返済不能となってしまった。これに相前後して各地の出店を廃店とするようになって、中井家は衰退の一途をたどることになった。昭和九年、神戸店を開店して生糸の取引きをはじめたが、昭和十七年には、太平洋戦争の影響を受けて、完全に廃業となってしまったのである。
大田原店の場合は、大田原本店として、商圏拡大の中心となって繁栄していたようであるが、その経営形態については不明である。ただし、営業内容は、醤油醸造が中心になっていったようである。「栃木県営業便覧」(明治四〇年益子孝治所蔵)には、大田原町上町に「亀甲東」印醤油醸造元中井源三郎商店の名が見える。また、大正七年一月発行の「大田原町発展寿語六」には、醤油醸造元、和洋酒問屋中井商店とあり、前記「亀甲東」の他に六種の商標が記載してある。
しかしながら、酒造部門を営んでいた中井合名会社は、大正六年(一九一七)十一月にその権利の一切を三五、〇〇〇円で、大田原酒造株式会社に譲渡し、ついで、醤油部門も大正九年(一九二〇)五月、関東醸造株式会社に買収され、ここに、約一五〇年の歴史をもった中井源三郎商店は、総本店に先立って閉鎖されたのである。
このように、中井商店の大田原商業史における位置はきわめて高いものであり、大田原を県北の商業の中心地として発展させた功績は大きく、さらに、後続の日野商人の先陣として果した役割はまことに大であったといえるのである。