商店街の形成―旧大田原町の場合

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前記のように、大田原市の商店街は、江戸時代よりの伝統的な旧大田原町と旧佐久山町、それに新興の野崎駅周辺の三つの核を有しているのである。
 江戸時代の市街地を「大田原町並之図」(正徳三年「市史前編」)によって簡単に見ることにする。大田原宿の町並は、奥州道中沿いに西南端より新田町・下町・仲町・上町・寺町・大久保町と続き、その延長約一五町八間(約一、六七〇メートル)、さらに脇道として、上町から沼袋観音に行く荒町が付加され、総町屋数三〇四軒と記録されている。これらの町並みのすべてが商店街であったという確証はないが、口碑によれば、下町は、大工・鳶職・屋根・左官職などが多く居住する職人町であった。そして、下町から仲町を経て上町に至る間に、本陣・問屋・旅籠屋など宿場町に必要な機能が集中している。従って、仲町を中心とした、上町~下町が宿場町の中心街と考えられるのである。
 明治以後の商店街は、旧藩時代の下町・仲町・上町・寺町・大久保町・荒町を中心として発展したものである。なかでも大きく発展したのは荒町であろう。荒町は、前記「正徳町並図」によれば、奥州街道(道中)に付加された沼袋観音への脇道にすぎず、宿場の人足が多く居住していたようである。この荒町通りに、前節で述べたように二、七市が開市され、人々の集合が多くなり、特に、明治十九年(一八八六)東北本線が開通すると、その新駅と本町を結ぶ沿道として急速に発展した。
 「栃木県営業便覧」(明治四〇年)によると、当時の大田原・佐久山の商店街の様子がわかるので、以下これにより両地区の概況を見よう。もちろん、この「便覧」に出ている商店が、当時のすべての商店であるとは断言できないが、おおよその様子・傾向は推測できるのである。
 奥州街道(道中)を佐久山方面から大田原に入ると、矢板道と合し「さめが橋」(鮫ヶ橋 現鹿嶋川神明橋)を渡ると、大田原下町の商店街になる。この付近は、木炭・荒物・豆腐・菓子・青物・乾物・白米・魚・鳥屋など、日常用品・食料品などの小売・製造販売業が多い。仲町に近い方には、法律事務所・弁護士・執達吏・代書所などが多く見られ、これらは裁判所付近らしい景観である。
 仲町から上町にかけても、日常品・食料品店が多いが、その中で料理・飲食店・芸妓屋、あるいは〇〇楼と名乗る店が多く見られるのは、宿場町時代の中心街の名残りであろうか。
 上町十字路付近から寺町・荒町方面には、いわゆる老舗・大店が軒を連らねており、明治時代の中心地の貫録を示している。この十字路付近には大田原銀行が、荒町通りには郡須商業銀行が、それぞれ当地方の金融の中心として営業している。ここを中心にして、荒町方面には、呉服・洋品・小間物・書籍・陶器などを取りあつかう大小売店があり、さらに醸造業・肥料・海産物・薬種・油製造・銅鉄商・穀類など、小売よりむしろ卸売を中心においた大商店が多いのである。
 上町から寺町にかけても、醸造業のほか、呉服・太物・書籍・文房具の卸兼小売店などの大商店が見られるが、多くは日用品・食料品等の小商店である。寺町から大久保にかけても醸造業や肥料問屋の大商店のほかは、日用品・食料品が中心である。そうしたなかで、この地域で特に目立つのは、旅館業が数軒あるほかに、大工・形付業・屋根・石材・鍛冶職・建具職・請負職などの職人が多いことであろう。
 しかし、大手通りについては、新宿丁(大手の旧名)通りと記載されているのみで、商店街の形成にはいたってないのである。
 この「便覧」によると、大田原町内の商店(営業者)は三〇〇軒を超えているが、その中で特に多いのは、食料品・荒物・雑貨などを取り扱ういわゆる最寄品の小商店で、これが大部分を占めている。これに、若干の肥料・穀類・海産物・油類などを取り扱った卸兼小売の大店舗が加わり、これらが中心となって、大田原は県北の商業の中心地として栄えてきたのである。

明治38年頃の商店広告(郡司猛子氏蔵)


明治38年頃の商店広告(郡司猛子氏蔵)