商店街の形成―旧佐久山町の場合

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佐久山宿の構造については、「大田原市史前編」において考察されているので、ここに詳述することは避けて要記したい。
 本宿は、福原氏の知行地であるが、城下町というより宿場町の性格が濃厚である。その傾向は、明治初期まで続き、商店街の形成とはおよそかけはなれたものであった。明治初期の佐久山の様子を滝田貞吉はその著「村上英俊」において、次のごとく述べている由であるが、残念ながら、その原著に触れることができなかったので、「大田原市のすがた――社会科指導資料集」(大田原市教育会社会科部会編)より引用させていただくことにする。
 
 県令三島通庸氏の時に、旧態は改められてしまったが、その昔、町の中央を貫く小川に添うた緑陰こまやかな柳や松の街路樹、更にそれに平行して走る二列の町並は、宿場気分が横溢していた。
 懸行燈にかけた屋号がありありと読める。西側には、はすや、升本や、藤本や、中沢や、関や、近江屋、塚田や、吉田や、銭湯や、大島や、川上や、新富田、巴や、沢や、新玉や、柏や、富や、東側には、松のや、松や、越後や、伊勢や、えびすや、大玉や、川野や、奈良屋、岩野や、小島や、泉や、喜久や、尾張や、吉野や等々、枝したたる柳の相間にゆらめきわたる紅燈、それ等ぬう粉黛錦繍の美君、洩れ来る細に哀切な歌声、然しこれらは幕末より明治初期、即ち六十年程前の我が佐久山町の姿であった。

 佐久山宿は、明治維新後、版籍奉還・廃藩置県により、領主の庇護を失い、次いで原方方面に陸羽街道と東北本線が開通した時、その宿場町としての機能も役割も終えんしたのである。宿場町の役割を果たしたとき、軒を連らねていた旅籠屋・遊廓が相次いで廃業し、それに代る新しい商工業はおこされなかった。
 さきに紹介した「栃木県営業便覧」によると、明治四十年(一九〇七)には、旅館業はわずか一軒しかのこされていない。これによると、当時佐久山の商店数は五五軒であり、その職種は次のとおりである。( )内は、店数を示している。
 菓子製造・販売(六)、とうふ・染物(四)・水車商・薬種・足袋・料理店(三)提灯・下駄・穀商・魚商・醤油醸造・荒物(二)・酒屋・たばこ・指物・酒造業・古着・銀行・旅館・小間物・肥料・理髪・金物・呉服・乾物荒物・牛乳・油類・書籍・桶屋(以上各一)
となっているのである。
 これらから分かるように、一種一店舗が多く、この町の特色を示す商工業は少なく、大部分は、日用品・雑貨・食料品等を取り扱う最寄品店である。したがって商店街を形成してはいるものの、その商圏はそれほど広くなく、町内および隣接村ぐらいであったようである。そのことは、専門店や飲食店の僅少さからもいえるのである。