そうしたなかで、昭和五年下野新聞では「下野名産推奨投票」(長谷川渉所蔵)を行っている。これは、人気投票であり、宣伝的要素も少なくないが、ある意味でそれぞれの地域を代表する商品であったといえよう。
これによると、大田原市に関係するものとして、優位一等那須之漬、同三位亀甲東醤油、良位四位池田胃腸丸が入選している。そこで当時の記事をそのままここに引用して、戦前の本市の代表的商品の一端をうかがうことにする。
優位
那須之漬
県下名産推奨投票に優位一等当選の栄冠を担った那須之漬は大田原町古田半造氏の製産にかかる副食物の雄である。那須之漬はもと乃木漬として販売されていたが古田氏の旧主である現小松伯爵(西郷従道氏の二男)が那須之漬と命名大正四年其の名によって登録し以来広く販売し来ったもの、現在では北海道朝鮮台湾にまで進出し名実ともに副食の王として認められている。
那須之漬の製造元古田商店は現主半造氏の半生に亘る力闘によって築きあげられ現在では大田原町に於ける大商店として益々発展しつつある。(中略)
那須之漬が同類の副食仲間を駆逐して全国に其の名を成すに至った主なる魅力はそれが純粋の漬物であるということから醸される独特の味と舌触りであって煮て味をつける同類の副食物とは比すべくもない。要するに那須之漬の味は自然的であって賞味するの飽かざるのゆえんもここにある。
店主古田氏は力行の人、現に大田原消防組頭であり自治的にも大きい貢献がある。一意那須之漬の製産に当り今日では一年の産額約三万樽(九升樽詰)、販路は内地の至るところ及朝鮮台湾北海道方面に及びこれが原料は全く那須野ケ原より生産される野菜にあおぎ年に大根十三万貫茄子十万貫を消費するという、事実わしが国さの名産として恥かしからざるもの、多くの推奨を受けて優位の首位をかち得たのも決して幸運のみによるものではない。我等も副食党の総裁をもって任ずる那須之漬を推奨するにちゅうちょせぬものである。
優位三位
亀甲東醤油
優位三等キッコウトウ醤油の醸造元である関東醸造株式会社を訪ね我等が名産亀甲東醤油の生い立ちを見る。大田原町では銀座である警察署通り其の北側に天を摩する偉大な煙突が同会社の目印であった。年産七千石の亀甲東醤油はここにはぐくまれるのである。
すばらしい大きな醸造場で幾棟かの蔵があの広い敷地を一杯に埋めている。第一工場は原動機と煮釜でいっぱい、耳をろうするような石油エンジンの爆音がまず我々をおどろかしさらにたぎりたつある途方もない大きな釜は見る人の肝を冷やす。これに続く第二工場は圧搾機室、八千貫の水圧附加機が魔物の様に控えて頻(しき)りと原料を押し潰(つぶ)している。圧搾機から貯槽にしずく落る醤油の精はなんともいえぬ香気を放って我々の味覚をそそることおびただしい。同会社が苦心製作したコンクリートの醗酵タンクは試験成績極めてよく将来の醤油醸造に一新紀元を画するものとして同業者の注目をひいているが、会社でもこれを一つの誇りとしている。同タンクは操業上からも耐久力からも申し分ない条件を具備し、しかも製品は現在の桶によるものに比してさしたる遜色がないという。
亀甲東醤油が其質において優れていることは年々増加する需要高によっても証明されるが各所の品評会においていつも入賞する一事はさらによくこれを物語っている。
同社は大正九年の創立資本金五十万円年々良好な成績を挙げて現在では県内でも有力な会社と目されている。もちろん、その裏面には重役社員の協力努力の涙ぐましいエピソードがあることはいうまでもない。
現在同会社の役員は、取締役社長小口融四郎 常務取締役小室一造 取締役渡辺美之助 同平山助右衛門同菊地源七 監査役阿久津透 同河原仁三郎 同中村太平の諸氏であって社長小口氏は大田原での有力者であり多くの人望を担い一面大田原郵便局の局長でもある。亀甲東の販路は栃木県一円、群馬、茨城、埼玉、福島、東京方面が主で最近著しく県外に認められてきた事は同会社の大きい強味である。
良位四位
池田胃腸丸
池田胃腸丸は現本舗主池田藤吉氏が明治四十四年二月明治大帝の済生救民の御聖旨に感奮し、国民の衛生保健を考慮するの余り自ら苦心研究の上発明したもので、今日では内地はもちろん朝鮮 台湾 樺太 南洋米国 支那(中華民国)等にまで広まり、その効果の著しいので知られている。本舗主池田藤吉氏は人も知る義侠家で今日まで貧困者に施薬した例は枚挙にいとまない。
一面、また郷土の文化向上にも少なからざる貢献あり町民の信望を担っている。池田胃腸丸のすぐれた点は慢性胃腸疾患に即効的効果のある事で今日の如き発展ぶりを見るに至ったゆえんも一にここに存するのである。
那須之漬
県下名産推奨投票に優位一等当選の栄冠を担った那須之漬は大田原町古田半造氏の製産にかかる副食物の雄である。那須之漬はもと乃木漬として販売されていたが古田氏の旧主である現小松伯爵(西郷従道氏の二男)が那須之漬と命名大正四年其の名によって登録し以来広く販売し来ったもの、現在では北海道朝鮮台湾にまで進出し名実ともに副食の王として認められている。
那須之漬の製造元古田商店は現主半造氏の半生に亘る力闘によって築きあげられ現在では大田原町に於ける大商店として益々発展しつつある。(中略)
那須之漬が同類の副食仲間を駆逐して全国に其の名を成すに至った主なる魅力はそれが純粋の漬物であるということから醸される独特の味と舌触りであって煮て味をつける同類の副食物とは比すべくもない。要するに那須之漬の味は自然的であって賞味するの飽かざるのゆえんもここにある。
店主古田氏は力行の人、現に大田原消防組頭であり自治的にも大きい貢献がある。一意那須之漬の製産に当り今日では一年の産額約三万樽(九升樽詰)、販路は内地の至るところ及朝鮮台湾北海道方面に及びこれが原料は全く那須野ケ原より生産される野菜にあおぎ年に大根十三万貫茄子十万貫を消費するという、事実わしが国さの名産として恥かしからざるもの、多くの推奨を受けて優位の首位をかち得たのも決して幸運のみによるものではない。我等も副食党の総裁をもって任ずる那須之漬を推奨するにちゅうちょせぬものである。
優位三位
亀甲東醤油
優位三等キッコウトウ醤油の醸造元である関東醸造株式会社を訪ね我等が名産亀甲東醤油の生い立ちを見る。大田原町では銀座である警察署通り其の北側に天を摩する偉大な煙突が同会社の目印であった。年産七千石の亀甲東醤油はここにはぐくまれるのである。
すばらしい大きな醸造場で幾棟かの蔵があの広い敷地を一杯に埋めている。第一工場は原動機と煮釜でいっぱい、耳をろうするような石油エンジンの爆音がまず我々をおどろかしさらにたぎりたつある途方もない大きな釜は見る人の肝を冷やす。これに続く第二工場は圧搾機室、八千貫の水圧附加機が魔物の様に控えて頻(しき)りと原料を押し潰(つぶ)している。圧搾機から貯槽にしずく落る醤油の精はなんともいえぬ香気を放って我々の味覚をそそることおびただしい。同会社が苦心製作したコンクリートの醗酵タンクは試験成績極めてよく将来の醤油醸造に一新紀元を画するものとして同業者の注目をひいているが、会社でもこれを一つの誇りとしている。同タンクは操業上からも耐久力からも申し分ない条件を具備し、しかも製品は現在の桶によるものに比してさしたる遜色がないという。
亀甲東醤油が其質において優れていることは年々増加する需要高によっても証明されるが各所の品評会においていつも入賞する一事はさらによくこれを物語っている。
同社は大正九年の創立資本金五十万円年々良好な成績を挙げて現在では県内でも有力な会社と目されている。もちろん、その裏面には重役社員の協力努力の涙ぐましいエピソードがあることはいうまでもない。
現在同会社の役員は、取締役社長小口融四郎 常務取締役小室一造 取締役渡辺美之助 同平山助右衛門同菊地源七 監査役阿久津透 同河原仁三郎 同中村太平の諸氏であって社長小口氏は大田原での有力者であり多くの人望を担い一面大田原郵便局の局長でもある。亀甲東の販路は栃木県一円、群馬、茨城、埼玉、福島、東京方面が主で最近著しく県外に認められてきた事は同会社の大きい強味である。
良位四位
池田胃腸丸
池田胃腸丸は現本舗主池田藤吉氏が明治四十四年二月明治大帝の済生救民の御聖旨に感奮し、国民の衛生保健を考慮するの余り自ら苦心研究の上発明したもので、今日では内地はもちろん朝鮮 台湾 樺太 南洋米国 支那(中華民国)等にまで広まり、その効果の著しいので知られている。本舗主池田藤吉氏は人も知る義侠家で今日まで貧困者に施薬した例は枚挙にいとまない。
一面、また郷土の文化向上にも少なからざる貢献あり町民の信望を担っている。池田胃腸丸のすぐれた点は慢性胃腸疾患に即効的効果のある事で今日の如き発展ぶりを見るに至ったゆえんも一にここに存するのである。
(漢字、かなづかい、送り仮名など、原文を損なわない程度に現代表記に改めた。)
池田胃腸丸本舗・昭和5年(長谷川渉氏蔵)