まず、昭和十三年三月一日には綿糸の割当制が始まった。これが、配給切符の第一号となり、木綿不足は「純綿」という言葉を流行させたのである。ついで、ドイツがポーランドに進撃を開始し、ここに第二次世界大戦がはじまると(昭和十四年九月一日)、政府は、この戦争に不介入を声明したにもかかわらず(同年九月四日)、国内情勢は株式・商品市場は暴騰し、むしろ大戦歓迎の気運であったのである。
このような情勢から、政府は同年十月十八日、価格等統制令・地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令等を公布、二十日より実施した。これにより、一般物価・賃金・地代・家賃などを九月十八日の水準で凍結したが、これにしたがい各種の商品に「ヤミ価格」がつくようになっていったのである。
同十五年になると、価格形成中央委員会では、米・みそ・醤油・塩・マッチ・木炭・砂糖など一〇品目に切符制度の採用を決定(四月二十四日)、砂糖は一人一か月半斤(八〇匁)、マッチは一日五本ときめられた。これにより、翌十六年四月一日より東京・大阪など六大都市で、米穀配給通帳制(これは、同五十七年一月まで続いた。)、外食券制が実施され、大人一日につき二合三勺(約三四五グラム)の割合に米が配給されるようになったのである。家族数・職業および外食の有無等に異動を生じた時は、直ちに通帳に「異動申告書」を添え、隣組長を通じ、町会長に提出して、通帳の「世帯一日割当量」の訂正を受けねばならなかったのである。この制度は、逐次、地方にも適用されていったが、それにつれて、一日の基準量が減少したり、他の雑穀・芋類に代えて配給されたり、やがては、遅配や欠配さえも生じて来たのである。
太平洋戦争(昭和十六年~二十年)が起こると、この傾向はさらに強まり、同十七年二月には、衣料品のすべてが切符制となった。これにより、都市居住者は一年に一〇〇点、郡部では八〇点の衣料切符が交付され、その範囲内で衣料品の購入が行われたのである。たとえば、タオル・手拭三点、エプロン二点、ワイシャツ一二点、背広五〇点、あわせ四八点などと決められたが、実際には品不足のため、なかなか欲しい衣料は購入できなかったのである。
一方、政府は同十七年三月十日、閣議で「中小工業者の整理統合および職業転換促進」を決定し、五月十三日には、企業整備令が公布された。これにより、多くの非軍事的企業は整理・統合され、統制会社等に残った者以外の商店主・従業員等は、あるいは家業を廃し、あるいは多年身につけた職業をやめて、軍需工場に転職し、不慣れない工場労働者となったのである。
大田原の商店街も大部分は閉店し、生活必需品や主食等の配給所が、わずかに残っていたに過ぎない。この間の主食・諸生活必需品の流通組織についてその解明を試みてみたが、残念ながら十分に資料を収集することができなかったので、今後の課題としてのこしておきたい。すべての国民が耐乏生活を強いられていたこの時代の様子が、十分に解明できなかったのは、大変残念であるので、当時の世相を物語る流通に関する史料を紹介しておきたい。
次に掲げる文書は、学用品価格抑制に関する栃木県からの通達と業界の反応である。まだ太平洋戦争に入る以前のものであり、比較的物資が入手できた最後のころのものであるが、それでも、統制経済と品不足の時代の到来をうかがい知ることができるのである。
商第七〇三号
昭和十四年三月二十三日
栃木県経済部長
各市町村長殿
学用品価格抑制ニ関スル件
標記ニ関スル主務省ヨリ通牒ノ次第モ有之目下需要最盛期ニ向ヒツツアル此度之ガ価格ノ抑制ヲ図ルハ適切ナル措置ト認メラレ特ニ斯品中最モ需要多カルベキ物品ニ付、各県下業者代表ト協議ノ結果別紙ノ通リ標準価格ヲ決定致シ候条御了知ノ上ハ各学校当局並ニ管内業者ニ対シ右価格ノ厳守方御取計相成度此段及通知候也
標記ニ関スル主務省ヨリ通牒ノ次第モ有之目下需要最盛期ニ向ヒツツアル此度之ガ価格ノ抑制ヲ図ルハ適切ナル措置ト認メラレ特ニ斯品中最モ需要多カルベキ物品ニ付、各県下業者代表ト協議ノ結果別紙ノ通リ標準価格ヲ決定致シ候条御了知ノ上ハ各学校当局並ニ管内業者ニ対シ右価格ノ厳守方御取計相成度此段及通知候也
(金田・第二一二)
の通達あり、そしてノート(学習帳・大学ノート)・鉛筆(筆記用・色蕊鉛筆)・絵具・クレヨン・インク・墨汁・糊・消ゴム・算盤・ランドセル等について、銘柄・規模により各種の商品の標準値段を設定している。一方これに対して取扱業者は、誓約書を出して、この標準価格を厳守することを約しているのである。
誓約書
我等業者ハ学用品ノ需要最盛期ヲ際シ別紙価格ニヨル販売ヲ実行スルト共ニ別紙以外ノモノニ対シテモ自粛自戒適正ナル販売ヲ以テ現下物価騰貴抑制ニ対応センコトヲ誓約シ直チニ実行スルモノトス
右ニ違反シタル場合ハ如何ナル御処置ヲ受クルトモ何等異議申立間敷候也
昭和十四年三月二十三日
宇都宮市 内山馨
(中略)
大田原町 人見定吉
渡辺晃太郎
(以下略)
次いで、四月十日には、県経済部長から市町村長に対して「本県物品販売公定価格表」を送付し、農会・管内小学校に配布するように指示しているのである(金田・第二一二)。
価格が統制され、標準価格が制定されても、物資の購入ができるうちはよかったが、戦局が悪化してくると、需要物資の生産優先が続き、日常生活必需品はなかなか入手することが困難であった。そして、戦争に協力し、物資を節約する意味から、大政翼賛会が音頭をとって、「衣料切符返納運動」が行われたのである。この運動は、のちに大日本婦人会栃木県支部に移管されて行われた。移管時の同十八年三月三十一日現在で那須郡内で、一九二、七四五点、そのうち、大田原町五三、五〇一点、佐久山町二九、七八六点が返納されている。なお、親園村・野崎村・金田村については報告がない(金田・第二一二)。
このように、衣料切符が交付されても、物資がなく、かりに物資があっても正常な流通ルートにのることは少なく、ヤミからヤミへと流されていた時代になったわけである。このような時代になると、もはや、商業活動といえるものはなかったのである。これは大戦が終了しても、しばらくの間続いていたのである。