戦前の金融機関

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明治四年(一八七一)「新貨条例」が公布され、今まで使用されていた両・分・朱といった貨幣単位の呼称が廃止され、円を新貨幣とすることが決められた。この円を基準に十進法の円・銭・厘に改められたのである。
 次に近代的金融機構の整備の必要から、明治五年(一八七二)「国立銀行条例」が制定された。これによって第一国立銀行など四行が設立されたが、兌換銀行券であったため、発行するとすぐに金貨に交換してしまうという状況で、その経営は不振であったようである。
 そこで、明治九年(一八七六)金貨兌換の制度を中止する国立銀行条例の改正が行われたが、その主要改正点は次のとおりである。
 
(1)資本金額制限の緩和――国立銀行の資本金額を一〇万円以上とし、事情により五万円までを認める。

(2)紙幣発行権の拡張――銀行紙幣の抵当公債を四分利以上のものとし、しかも資本金額の八割とし、銀行紙幣をこれと同額とする。

(3)兌換方法、兌換準備の変更――通貨兌換とし、引換準備金は資本金額の二割とする。

(「日本経済史大系」五近代上 楫西光編 東京大学出版会)

 この年の同じ八月に「金禄公債証発行条例」が公布され、華士族の家禄・賞典禄が廃止され金禄公債証書が発行された。この公債が銀行資本への払い込みを認められたわけであるから、設立が容易になった国立銀行に投資され、各地に国立銀行がつくられたのである。「国立銀行の設立は一八七六(明治九)年度一二行、七七年度二七行にたいし七八年一〇九行である」(「日本経済史大系」)といった具合に乱立ぎみであった。
 栃木県における銀行の始まりは、明治十一年(一八七八)八月に開業した栃木市に本店のある第四十一国立銀行である。資本金は二〇万円で、一〇〇円を一株とし、二、〇〇〇株であった。大田原町の出資者は第1表の二人であった。
第1表 第四十一国立銀行株主名(抜粋)
金額引請株数住所株主ノ姓名属族
八百円八株栃木県下那須郡大田原町士族 権田等
五百円五株同  同  郡大田原宿同  相山義倶
(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 しかるに、「明治二十二・三年栃木県統計書」によると、大田原の右記の二人の株主がいなくなっていることが、「銀行ノ株主及株金」(一八六丁)で判明する。したがって明治十一年から二十二年までの間に、何らかの理由で株主の異動があったものと思われる。「鈴木要三発案状」(鹿沼市住)によると、明治十八年十一月十七日付の相山義倶宛の返信として、「然バ第四十一国立銀行株式御売却被為成度、就テハ買主之見込有無御尋ニ付左ニ申上候」(「栃木県史 史料編・近現代七」)とあり、おそらく買却されたものであろうと考えられる。いずれにしても、この両名が大田原における近代的銀行とのかかわりをもった最初の人たちであろう。
 明治十三年(一八八〇)那須開墾社が設立され、那須野が原の開墾が始まった。そして那須疏水の開削のため、第六十国立銀行より五、〇〇〇円の試削費を明治十七年七月に借用したのである。
 
     借用金約定証
  一金五千円也 借用約定高
是ハ当明治十七年七月ヨリ、来明治十八年四月迄、毎月金五百円ヲ目途トシ、別紙ノ通帳ヲ以テ、借用可致候、尤利子ノ儀ハ、年八朱ノ日割ヲ以テ、勘定可致筈。

右ハ今般那須原用水路開鑿試験費トシテ、借用約定候処確実也、御返償之儀ハ、当時御開鑿請願中ニ付、其御指令済官費御支出相成候上ハ、速ニ書面ノ元利御返償可仕候、仍而、借用金約定書如件。

   明治十七年七月一日
                                栃木県下野国那須郡
                                      那須開墾社惣代
                                          矢板武
                                          印南丈作
   第六十国立銀行
    頭取 森時之助殿
(「那須疏水」田島董編)

 このことについて、「那須疏水」では、
 
幸いに時の農商務大輔品川弥二郎は、この事業に多大の同情をよせていたので、そのあっせんによって、第六十国立銀行から、金五千円借入の約定が成立したのである。この時の第六十国立銀行頭取は、森時之助で、同行はそのころ、大田原に支店を開く計画をしていた。

と説明している。したがって、第六十国立銀行と那須開墾社との関係からまもなく、大田原に支店が設けられたことがうかがえるのである。「鈴木要三発案状」の明治十九年六月一日付の書簡によると、
 
一 栃木県下国税地方税取扱各代理店扱料之義地方税取扱無之ニ付右取扱料相減候事ニ付御伺申候、尤同年六月三十日迄ハ従前之通相渡候心得如何トナレハ国庫取扱改正ニ付非常ニ六ツケ敷ニ付其儘扱料相渡七月ヨリハ最早扱振モ唅入候得ハ減額候モ可ナリト存チ候、是迄ノ扱料ハ各代理店一ケ所一ケ年二百円ツツ大田原ハ二百五十円、足利ハ五百円(是ハ国税取纒メ本所ナレハナリ)、此内銘々何程ツツ相渡シ候モノ歟御評議御決定ノ上ハ小生各店本月中順回談判可致候間御指揮奉願上候、
右ニ付御参考ノ為申上候、第六十銀行ヨリ各店ノ手当ハ一ヶ所一ケ年百二十円宛ト取極候由、地方税ハ金額モ少額随テ取扱方モ簡易ナルニ如斯多額ノ取扱料トハ実ニ無算当之事ニ存候、其内六十銀行ノ社員兼勤スル所ハ真岡、矢板、鹿沼、佐野ノ四ケ所ニ御座候、此分ハ国庫方減額セラルルモ内実第六十ヨリ受取所モ有之候得ハ宜敷候得共大田原、足利ノ如キハ単ニ当支店ノ名義ノミニテ地方税ハ取扱サルニ付人員ヲ減スル処ニモ至ラス、矢張先般同様ノ取扱実ハ却テ手数相増候様之モノニ御座候、右等御斟酌公平之御所置ニ致度此段併テ奉申上候、

(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 とあるように、第六十国立銀行の支店といっても、名前だけであるとしているのである。第六十国立銀行は、明治十一年東京小舟町に開業した銀行である。明治十九年(一八八六)宇都宮支店が設けられ、大田原は支店ではなく、出張所であったことが次の資料によって判断されるのである。
 
       受取証
  一金四千九百八十六円二十三銭六厘
  右ハ本店ヨリ御用立元金御願出之通リ正ニ受取候也
               第六十国立銀行
                 大田原出張所
   十八年五月二十四日                             渡辺豊蔵
   印南丈作殿
(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 明治二十三年(一八九〇)「銀行条例」の制定、同二十四年の宇都宮町の下野銀行の創立は、那須開墾社社長矢板武、他県北の大地主植竹三右衛門が参加して作られた。
 このような私立銀行の設立は、大田原の人々にも近代的金融機関の必要性を自覚させたことであろう。のち明治二十七年(一八九四)九月三日、大田原銀行が誕生したのである。当時の会社票には次のように記されている。
 
    会社票(明治三十年十二月三十一日)
  現在    那須郡大田原町
  会社種類  株式
  会社名称  大田原銀行
  営業種別  銀行
  所在地名  大田原町三五二番地
  創立年月  明治二十七年九月三日
  払入済資本金 二六、〇〇〇円
  積立金     一、四二五円
  最近利益配当割合 年一割一分
  株主人員  九十一人
  支店数   〇
(大田原・第九八)


大田原銀行(益子孝治氏提供)

 右の資料にある株主九一名はどのような人々であったろうか。当時の資料を欠くので不明であるが、明治三十六年(一九〇三)下毛銀行同盟会例会記念写真の中に、下野銀行の矢板武、那須商業銀行の滝田秀雄、村上銀行の村上友二郎らとともに、大田原銀行の大田原精(徳)盈が写っている。大田原銀行創立より一〇年ほどあとの写真ではあるが、他銀行が創立当時の頭取などが出席していることからみると、大田原精(徳)盈はおそらく大田原銀行の頭取であったものと思われる。
 大田原銀行の創立当時、大田原町には細小路製糸工場や大田原製糸工場がつくられ、那須野馬車鉄道設立の気運がみられるなど、活気を呈し、そのような動きが初の銀行設立になったのではないかと考えられる。
 日清戦争に勝った日本は経済の発展が著しく、「日本勧業銀行法」や「農工銀行法」を公布し、明治三十年(一八九七)には金本位制を確立するに至った。大田原町では、このころ葉煙草専売所が設置され、煙草三光合資会社や塩那肥料株式会社などがつくられるなど、活気を呈していた。このような状況のもとに、若林五郎平・星野半六・大高文七・山本定蔵らの豪商によって、明治三十三年(一九〇〇)一月、那須商業銀行がつくられたのである。
 大正十四年に出版された「大田原小誌」によると、
 
那須商業銀行 明治三十三年一月の創立で、当時の資本金十二万五千円、極めて微々たるものであった。

(以下略)

とあるが、先の大田原銀行に比べると、資本金は数倍であり、明治三十年代には那須郡関係では黒羽・馬頭・烏山産業・村上(佐久山町)の各銀行が、町名を冠して設立されているのに対し、那須商業銀行が郡名をとって銀行名としていることから、那須郡一円を金融圏として設立されたものと思われる。「塩原町誌」には、資本金五万円、株主数一五六人と記されているが、おそらく当初は、資本金五万円で発足し、のち一二万五千円に増資したのであろう。那須商業銀行はその後、佐久山町と黒磯町に支店を設けているが、佐久山支店については、佐久山町の佐久山尋常高等小学校が昭和七年に編集した「郷土地誌資料」に、次のように記されている。
 
  一、銀行名 株式会社那須商業銀行佐久山支店
  一、位置 佐久山町大字佐久山中町
  一、数  本店 大田原町
       支店数 二、黒磯町、佐久山町
  一、資本金総額 百万円
  一、払込額 五十五万円
  一、積立金(但シ昭和六年末現在)四十三万八百九十六円
  一、創設ノ時期 明治四十四年九月
  一、人員 四名
  一、支店長 鈴木豊
 那須商業銀行が設立された同年七月、佐久山町大字佐久山に村上銀行が作られている。個人的色彩が強いもので、資本金は二〇、〇〇〇円であった。「帝国銀行会社要録」(大正十四年)には次のように記されている。
 
    村上銀行  那須郡佐久山町
   設立 明治三十三年七月
   資本金 二〇、〇〇〇円
   行主 村上友二郎
(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 行主村上友二郎は父村上勘二郎の跡を継いで行主となった者で、村上銀行を始めたのは勘二郎である。子孫によって建てられた「村上勘二郎翁碑」に次のように記されている。
 
翁ノ父ハ元金沢藩士ナリシガ商業ニ従ヒ来ツテ親園村下沼ニ住ス、翁生レテ慧敏十八歳ノ時佐久山町村上家ヲ嗣ギ大イニ商才ヲ現ハス(中略)報徳社私立銀行郵便局等ヲ経営シテ産業ノ奨励ト地方ノ開発トニ専心シ世ニ益スル所甚大ナリ………(以下略)

 明治三十七・八年日本は再び対外戦争を起こすのである。いわゆる日露戦争である。この時、戦時債券の募集があるが、これらは銀行を通して行われたようである。ただ、黒羽銀行に近い市域の北金丸、南金丸の大字では川西町の黒羽銀行が窓口になったようである。
 明治の末から大正の初期にかけて、前記の諸銀行は、大田原地方の金融機関として、現金の預け入れ、払い出し、手形の決済など重要な役割を果したのである。また、町村の金庫としてもその役割を果したことが、次の史料によって知ることができる。
 
甲第一八号
本町有金六千円明治四十三年九月十六日附同四十四年三月迄ノ期間ヲ以テ預ケ入候処都合ニ依リ本年六月末日占据置預置候定期預リ金証書ヲ更正セズ其儘ニ据置候事ト御承知有之度利子計算之儀モ六月ニ到リ積算致シ度候条
右御承知有之度此段及御照会候也
 明治四十四年四月七日

                                   佐久山町長 原蕃次郎
 
   大田原銀行
     頭取 川上騰吉殿
(佐久山・四七)

佐久山町の公金はこの大田原銀行のほか、那須商業銀行(常務取締役滝田秀雄)に三、〇〇〇円、村上銀行(行主村上友二郎)に一二、九五〇円預けられていた。
 また農会も銀行を利用していたことが次の例から判断される。
 
拝啓貴殿当座勘定本年五月三十一日ニ於テ計算相立候処左記ノ通リ相成候間御調査ノ上違算有之候ヘバ速ニ御申越被下度候
 一金八拾参円七拾八銭也
   但当座 預リ金残高
 一金九拾銭也
   但明治四十五年上半期当行ノ可支払利息
右相違無之候ヘバ利息ノ義本月二十日迄ニ御受取被下度尚同日迄ニ御受取無之ニ於テハ貴殿当座勘定ヘ振替記入可致候間御了承被下此段得貴意候也
 明治四十五年六月四日

                              株式会社那須商業銀行佐久山支店
   佐久山町農会長
    原蕃次郎殿
(佐久山・第四七)

 大正三年(一九一四)から同七年にわたる第一次世界大戦は、日本に未曽有の好景気をもたらした。この好況によって多くの成金が生まれたのであった。大田原地方の金融界も同様であって、「大田原小誌」では、那須商業銀行の発展の様子について次のように記している。
 
資本金は大正二年一月十二万五千円を増資して二十五万円となり、さらに大正八年十一月百万円に増資して幾星霜を経、遂に今日の地方における一流銀行となったのである。

 大正四年と同八年の銀行の資本金や利益金をみると、第2表のとおりである。資本金総額は五五〇、〇〇〇円から三、〇〇〇、〇〇〇円にふえ、五・四倍となった。利益金は五五、一五九円であったものが、一二〇、五三〇円と五・八倍にふえたのであるが、いかに発展したかがうかがい知れよう。
第2表 銀行一覧
銀行大正資本金積立金
総額払込額
大田原二〇〇、〇〇〇二〇〇、〇〇〇一〇五、〇三〇
一、〇〇〇、〇〇〇四七五、〇〇〇二五六、〇〇〇
一二一、〇〇〇、〇〇〇五八〇、〇〇〇二七一、四一五
那須商業二五〇、〇〇〇一七五、〇〇〇五四、五〇〇
一、〇〇〇、〇〇〇四三七、五〇〇一七〇、三〇〇
一二一、〇〇〇、〇〇〇五五〇、〇九〇二〇三、七六〇
佐久山五〇〇、〇〇〇一二五、〇〇〇四、〇〇〇
一二五〇〇、〇〇〇二〇〇、〇〇〇一三、九〇〇
星野産業五〇〇、〇〇〇一二五、〇〇〇三、七〇〇
一二五〇〇、〇〇〇一二五、〇〇〇九、一五〇
五五〇、〇〇〇三七五、〇〇〇一五九、五三〇
三、〇〇〇、〇〇〇一、一六二、五〇〇五九三、五三〇
一二三、〇〇〇、〇〇〇一、四五五、〇九〇四九八、二二五
 
銀行大正利益金株式会社配当
金額配当率
大田原三六、七三一二〇、〇〇〇一・〇〇
一七五、二〇〇四九、三〇〇一・一〇
一二八二、三三八六二、七五〇一・一〇
那須商業一八、四二八一七、五〇〇一・〇〇
一一四、四四二五二、四〇〇一・二〇
一二一〇〇、九三一六六、〇〇〇一・二〇
佐久山一五、七九〇七、三七五〇・五九
一二三三、〇一八二〇、〇〇〇〇・一〇
星野産業一三、八〇〇一〇、〇〇〇〇・八〇
一二一三、〇五九一〇、〇〇〇〇・八〇
五五、一五九三七、五〇〇一・〇〇
三一九、二三二一二〇、五三〇〇・九二
一二二二九、三四六一五八、七五〇〇・八〇
(「栃木県統計書」)

 資本金の払込額は三七五、〇〇〇円(大正四年)から一、一六二、五〇〇円(大正八年)と三倍に増加しているのである。
 このころ、大田原町には、金銭の貸付・信託や、有価証券の売買を扱う大田原実業信託株式会社(のち那須信託合資会社)や、大田原商事株式会社などが創立されるなど、めざましい好況を呈したのである。
 第2表中、佐久山銀行と星野産業銀行は大正八年に設立されたもので、大正十四年銀行一覧によると次のとおりである。
 株式会社佐久山銀行  那須郡佐久山町
設立 大正八年九月 総株数一万株
 資本金 五〇〇、〇〇〇円 内払込額二〇〇、〇〇〇円
 (締)池田双助、八木沢喜一、加藤正信、青木藤作、見目清、銀木良一、笹沼銈三郎、(監)矢口長右衛門、矢板寛、伴栄三郎、伊藤貞七郎、伊藤浪三
 支店 那須郡大田原町
 
  株式会社星野産業銀行 那須郡大田原町
 設立 大正八年一月 総株数五千株
 資本金 五〇、〇〇〇円 内払込額 一二五、〇〇〇円
  (締)星野半六、岩下喜平、上妻健吉、(監)渡辺真蔵、星野富次郎

(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 両銀行の設立が、第一次大戦の好況によってつくられたことは明らかであるが、その人的構成には大きな違いがある。星野産業銀行は、大田原町で醸造業を営む星野家によって設立されたものであり、「大田原小誌」には次のように記している。
 
     星野産業銀行
星野半六氏一家の銀行にして大正八年三月創立す。株式会社組織なるも、星野王国一族の株主七人の所有なり、資本金五拾万円、拾弐万五千円払込にして頭取星野半六氏なり。

 佐久山銀行については、「野州名鑑」に次のように記されている。
 八木沢喜一
夫れ実業家としての君は大正九年加藤正信、池田双助、青木藤作と共に佐久山銀行を創立、其の専務取締役となり、同行の経営に任じ同地方産業の振興に寄与する所大也、

 しかし、他に佐久山銀行の役員として、矢板銀行の役員名がみられることは注意すべき点であろう。
 ところが第一次世界大戦後の大正九年(一九二〇)には戦後恐慌がおこり、以後、慢性的な不況がつづいた。特にこうした不況のため、年末には火が消えたように活気をなくしていたことを、当時の新聞は報じている。
 
     各地歳末
   大田原町
 地方歳末の気分は数日来漸く濃厚になったが村落に於ける極度の金融梗塞は直ちに商家に至大の影響を及ぼし、資金集収殆んど絶望に陥り、金融界亦頗る警戒を厳重にして貸出を手控えある為、市中の活気甚だ消沈し、年内余す所一両日中に切迫しながら各商店客足全く無く悲観しあり

(「下野新聞」大正一〇年一二月三〇日付)

 このような状況であったので、金融界は極めて不振であったのである。
 そのため、前出の第2表にみられるように、大田原地方の銀行の積立金・利益金は大正八年に比べて、大正十二年はそれぞれ、積立金が九五、三〇五円、利益金が八九、八八六円減少し株式配当率は〇・九二割から〇・八〇割へと減少するという状態になった。特に大田原銀行の利益の減少率は五三パーセントと半減したのである。
 このような金融状況を打開するため、有力銀行に合併するか、あるいは互に合同しあって、資金の増大をはかり、経営の一新に努めなければならなかったのである。
 大正九年八月二日銀行条例が改正され、銀行合同の手続きが簡略化され、大正十年四月十四日には「貯蓄銀行法」が公布された。これによって、大田原銀行・星野産業銀行・佐久山銀行などは貯蓄部門が切り離され、下野銀行や矢板銀行などの貯蓄部門とともに、大正十一年一月下毛貯蓄銀行を設立し、宇都宮に営業を開始したのである。したがって、大田原町には上町(現 山の手一丁目)にその支店がおかれた(のちこの上町支店は足利銀行に合併されている)。
 また一方では新しい銀行の創立もみられた。野州銀行がそれである。当時の新聞によると次のように記されている。
 
     野州銀行設立
予て十月二十一日主務省に許可申請中なりし、株式会社野州銀行資本金百二十万円の設立に関し、二十七日大蔵省より銀行営業認可県に達したり。

(「下野新聞」大正一〇年一二月二九日付)

 ちょうど、このころは大田原女子高校の前身である郡立那須高等女学校の拡張が行われていた時点であり、野州銀行より一、五〇〇円の借入れが、大田原町役場より行われている(第3表)。
第3表 大田原町公債台帳
起債の目的郡立那須高等女学校拡張費へ寄附
起債金額一、五〇〇円
議決年月日大正十一年八月二十二日
許可年月日大正十一年九月二十七日
債権者野州銀行
借入年月日大正十二年四月二十四日
利率年一割

 しかしこのような銀行の設立は、かえって既存の銀行経営を圧迫することになり、大正十二年三月「栃木県歴史年表」(下野新聞社)には次のように記されている。
 
 「芳賀・下都賀・那須郡の銀行家、合併問題を協議」
というように銀行合併問題が協議され、これによって、大田原銀行は野州銀行と合併したのである。大正十二年野州大田原銀行の誕生である。
 しかし合併はしたもののその経営は思わしくなく、大正十三年十月二十八日の下野新聞には、増田新七が野州大田原銀行の整理を引き受けたことが載っている。この時、銀行の整理に当たったのが青柳徳之輔と大橋直次郎であった。この二人については、「野州名鑑」に次のように載っている。
大橋直次郎 (前略)更に野州大田原銀行破綻に瀕したる際青柳徳之輔と共に挙げられて常務取締役となり誠意を披瀝して整理に従い後ち下野中央銀行に合併して預金者に些の損害を与えざる等一般より其の非凡の手腕を認めらる。
青柳徳之輔 (前略)大正十三年野州大田原銀行常務取締役に就職して鋭意同行の整理に努め昭和三年三月下野中央銀行と合併し預金者に損害を与えざりしが如き同地方財界の殊勲者たり(以下略)。

と記され、大正十四年に出版された「大田原小誌」では、次のように記述してある。
 
   野州大田原銀行
当銀行は大田原銀行と野州銀行との合併にして資本金二百八万円、明治二十七年九月の創立なり、大正十二年春以来不況に際し一時破産せんかとの風評ありしも、株主の誠意と社会人の義侠とに依り復活し、営業を継続し居るも昔時の感なし、支店六を有す、現重役は左の如し
取締役頭取 増田新七、常務取締役 大橋直次郎、青柳徳之輔、取締役 飯村峯、井上新太郎、長谷川万治、渡辺金彌、監査役 大橋清吉、川上久兵衛、平山助右衛門

 これに対し、那須商業銀行については、「大田原小誌」では次のように記している。
 
那須商業銀行 (前略) 一時頗る悲境に陥ったが、現取締役支配人増淵音一郎氏の適切なる経営方針に依り、信用を回復し、隆盛を見る事が出来たのである。現在の状態左の如し
 一、資本金壱百万円
 一、払込金五拾五万円
 一、諸預り金百四拾余万円
 一、諸貸付金弐百余万円
 一、積立金三拾万円余
 一、土地公債等の資産弐拾余万円
取締役頭取 増田新七、常務取締役 山本久吾、取締役支配人 増淵音一郎、取締役 植竹熊次郎、若林五郎平、川上久兵衛、監査役 江部順治、石和田幸太郎、阿久津正

 また、その取締役支配人増淵音一郎については、「野州名鑑」に次のように記してある。

那須商業銀行辞令(増渕五郎氏蔵)

増淵音一郎 (前略)明治四十一年六月那須商業銀行書記となり敏腕を揮ひ、大正四年副支配人に抜擢さる、大正十二年取締役に挙げられ支配人を兼ね、昭和三年常務取締役に就任す、資性温厚の裡に覇気を蔵し思慮周密頭脳明晰小事と難も忽にせず常識の頗る発達せる人なり那須商業銀行の今日ある頭取に増田新七あり常務に君ある為めなりと云わる(以下略)。

と記され、信用第一とされる銀行業において、その信用を維持することのできた那須商業銀行は、町村の公金庫としての役割を果していくのである。金田村においては、第一次世界大戦当時、大田原銀行を預け入機関としていたのであるが、次の例にみられるように、那須商業銀行を預金先として指定しているのである。
 
議第八号(大正十三年七月二十九日)
 公金預入ニ関スル件
新ニ那須商業銀行ヲ指定シ同銀行ノ破綻等ニヨリ生ジタル損害ハ一切収入役ノ責ニ任セシメザルコトニ満場一致決定

(金田・第八八)

このように、大正末には那須商業銀行と野州大田原銀行が金田村の公金預け入機関となっていたのである。
 昭和二年(一九二七)三月金融恐慌が起こり、同月十五日東京渡辺銀行が休業し、株式市場は暴落したのである。四月にはいると神戸鈴木商店が破産し、台湾銀行が休業するなど、全国的な銀行の休業に追いこまれた。政府は四月二十二日、三日間の支払猶予令(モラトリアム)をだし、全国銀行は二日間の休業を行った。
 かくて、大田原町の那須商業銀行・野州大田原銀行・星野産業銀行・下毛貯蓄銀行大田原支店・佐久山町の佐久山銀行などは、四月二十二日、二十三日の両日休業したのである。このような金融恐慌の中に巻き込まれた一般庶民は、より安全な銀行・郵便局などへ預金の変更をしていったのである。
 野州大田原銀行と那須商業銀行の頭取をしている増田新七には、両銀行の経営内容がどのようなものであるかはわかっていたはずである。また佐久山銀行の加藤正信、矢口長右衛門らも下野中央銀行に名を連ねた役員であり、経営内容を知っていたであろう。ちょうど、金融恐慌の進行中の昭和二年三月三十日「銀行法」が公布(銀行条例は廃止)になり、企業形態を株式会社に限り、最低資本金(一〇〇〇万円)を規定、他業兼営を禁止し、監督を強化することが決められたのである。
 このような状況のもとで、野州大田原銀行と佐久山銀行は、下野中央銀行に合併していったのである。合併の経過は「下野中央銀行の営業報告」によると次のとおりである。
 
 第六期(昭和二年下半期)
十二月二十六日、当行ト株式会社佐久山銀行トノ間ニ合併契約ヲ締結セリ
十二月二十六日、当行ト株式会社野州大田原銀行トノ間ニ合併契約ヲ締結セリ
 第七期(昭和三年上半期)
二月二日、当行ト株式会社佐久山銀行、株式会社野州大田原銀行ト合併ニ関シ銀行営業会社合併並ニ之ニ伴フ変更認可申請及定款変更届ヲ地方長官ヲ経テ大蔵大臣ニ提出セリ
二月二十七日、株式会社佐久山銀行、株式会社野州大田原銀行合併ニ関シ大蔵大臣ヨリ合併並ニ支店設置ノ件認可セラル
三月十日、定款第五条ニ依ル新聞紙全部ニ株式会社野州大田原銀行トノ合併契約第三条ニ因ル併合ニ適セザル端数株式及提供ヲ為ナザル株式ニ対シ競売ヲナス旨公告セリ
四月六日、株式会社佐久山銀行、株式会社野州大田原銀行合併完了届ヲ地方長官ヲ経テ大蔵大臣ニ提出セリ

(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 こうして、大田原町の中心部旧金灯籠(現 山の手一丁目)のところにあった野州大田原銀行は、金融の使命を終って、その幕を閉じたのである。佐久山銀行もまた同様であった。
 この合併がどのような意味を持っていたか、「商工会議所五十年史」には次の記述がある。
 
 (下野中央銀行)
大正十五年十月には下野農商と上三川銀行、更に佐久山・野州大田原の四行を合併して、一層悪化した。この四行は新銀行法と県の半強制的な命令によるもので、万止むを得なかったが、何れも破綻しかけている不良銀行であった。合併の際に多額の費用を要した上に、合同して見れば四行分は欠損続きで、負担を徒らに増大するのみであった。

 かくして、昭和五年十一月二日下野中央銀行は休業するに至り、大田原町、佐久山町の支店は閉鎖されたのである。
 昭和五年といえば浜口雄幸内閣によって金解禁が実施された年であり、昭和恐慌が深刻化し、十一月は十四日に東京駅で首相が狙撃された月でもある。
 星野産業銀行と村上銀行については昭和二年の銀行法の最低資本金、他業兼営禁止に該当し、五年以内に閉鎖しなければならない運命にあった。下野中央銀行が閉店して、間もなく、昭和六年ごろ星野産業銀行は閉店した。
 このような昭和恐慌の時、大田原町の商工業発展のために設立されたのが、産業組合法に基づく「有限責任大田原町信用組合」である。このことについて「大田原信用金庫史」の中で次のように記している。
 
   有限責任大田原町信用組合
昭和三年二月十日設立認可、四月二十八日創立総会開催、初代理事組合長石和田幸太郎氏、同年五月二十九日稲村市三郎氏、替って理事組合長に就任、当時の理事及び監事は左の通り、
 理事 高藤至、瀬尾義弘、根本忠志、中村太平、西田平太郎、桑原広吉、星野富次郎、岩本末吉、石和田幸太郎
 監事 寺本儀作、川上利一、大橋芳太郎、青柳徳之輔、大橋直次郎、若林末造、小川清太郎
自第一回 昭和三年四月二十八日
至第五回 昭和七年十二月三十一日事業年度である。
第一回通常総会に提出された決算報告書より主要の勘定を摘記すると次の通り。
 出資金   二七、〇六〇円
 出席口数      九〇四
 預金総額   三、六一五円
 預金口数       三〇
 貸出金額  一二、五五〇円
 貸出口数       六九
 損失金      三二二円
以上でこの期間における業績は、多少向上の状態にはあったものの、経済界の不況に押されて、運営についても困難のようであった。

(「大田原信用金庫史」)

 その後、大田原町信用組合は保障責任大田原信用組合(昭和八年三月十四日)、大田原市街地信用組合(昭和十九年九月一日)と名称をかえながら発展していくのである。
 なお昭和六年度における組合員は四〇四人、出資口数は九四二口であり、出資者は商業が一八七人、農業が一三八人、工業は四〇人、その他八一人で、出資金は二八、二六〇円であった。借入金は二三、六〇〇円で主な借入先は産業組合中央金庫であった。また預け金は、一四、〇一五円四銭で、主な預け先は保障責任栃木県信用組合連合会と大田原郵便局である。貸付金六四、一三八円七二銭は、一七九件三八、一四七円七二銭が産業資金貸付であった(第4表)。昭和恐慌の時期に大田原信用組合ができたことは、庶民金融としてまことに重要な役割と意味をもっていたのである。融資をうけた商店などはからくも昭和恐慌を切りぬけ、次の発展への足がかりとすることができたのである。
第4表 有限責任大田原町信用組合事業報告書(昭和7年度(抜粋))
1.組合員および出資口数
年度別前年度末現在本年度末現在
職業別組合員数出資口数組合員数出資口数
農業139272238267
工業40514051
商業184534187543
その他39813981
402938404942

2.借入金
借入先前年度末現在高本年度借入高本年度償還高本年度末現在高
保証責任栃木県信用組合聯合会7,650.005,040.005,890.006,800.00
産業組合中央金庫3,500.009,000.007.0011,800.00
栃木県農工銀行5,000.005,000.00
合計16,150.0014,040.006,590.0023,600.00

3.預ケ金
預入先前年度末現在高本年度預入高本年度引出高本年度末現在高
保証責任栃木県信用組合聯合会2,503.3111,462.926,708.767,257.47
那須商業銀行548.3716,409.5016,700.00257.87
星野産業銀行3,960.00840.003,300.001,500.00
下野中央銀行大田原支店1,900.0001,900.000
大田原郵便局010,000.005,000.005,000.00
合計8,911.6838,712.4233,608.7614,015.34
(付記)定期預金 6,692.50,当座預金 7,322.84
(大田原・第29)

4.貸付金
区別前年度末現在高本年度末現在高
件数金額件数金額
無担保16924,847.2219026,991.72
有担保5229,420.007037,147.00
22154,267.2226064,138.72
(付記)貸付の目的 産業資金 38,147円72
          経済資金 25,991円00

5.組合員の貯金
前年度末現在本年度受入本年度払戻本年度末現在
員数金額金額金額員数金額
130人14,214円9899,929円8697,888円37159人16,256円47

6. 総会の決議
 (1)昭和7年1月24日 大田原小学校作法室ニ於テ総会ヲ開会シ
  ア.施行規則第12条ニ依ル借入最高限度ヲ金5万円
    貸付最高限度ヲ金2千円ト決議
  イ.余裕金預入先銀行ヲ次ノ通リ承認
     株式会社那須商業銀行
     大田原郵便局
 
 昭和二年の金融恐慌から昭和二十年の終戦に至る約二〇年間の金融機関の変遷を、金田村の「村会議事録」より抜粋して示すと次のとおりである。
 
  議案第五号(昭和四年二月二十八日)
   歳計現金預入銀行指定ノ件
  那須商業銀行ヲ以テ歳計現金預入銀行ニ指定ス
         (金田・第九一)
  議案第八号(昭和十三年二月二十三日)
   昭和十三年度歳計現金預入先指定ノ件
  昭和十三年度歳計現金預入先ヲ左記ノ通リ指定セントス
     左記
   大田原郵便局
   第一銀行宇都宮支店
   金田村信用販売購買利用組合
   株式会社足利銀行大田原支店
(金田・第九七)

  議案第八号(昭和十七年二月二十五日)
   昭和十七年度歳計現金預入先指定ノ件昭和十七年度歳計現金預入先ヲ左記ノ通リ指定ス
     記
   大田原郵便局
   第一銀行宇都宮支店
   金田村信用販売購買利用組合
   足利銀行大田原支店
   下毛貯蓄銀行
(金田・第一〇五)

  議案第三号(昭和二十年二月二十五日)
   昭和二十年度歳計現金預入先議決ノ件昭和二十年度歳計現金預入先ヲ左記ノ通リ指定ス
     記
   大田原郵便局
   足利銀行大田原支店
   金田村農業会
(金田・第一〇八)

 右の例に示されるように、昭和四年から昭和十三年への金融機関の変化は、昭和恐慌をはさんだ金融機関の状況を示すものである。昭和恐慌期には、中小銀行の預金の安全性は保障されたものではなかった。いつ閉店されるか、いつ取りつけをおこすかわからなかったから、少しでも不安のある銀行から預金を引き出して、これを安全な銀行や郵便局に移し預けようとしたのである。前出の大田原町信用組合という、小規模の金融機関においても同様であって、第4表の預け金の預金先や総会の決議にみられるように、整理期に入った下野中央銀行大田原支店からは全額引き出され、星野産業銀行の預金は半分以下に減少するに至ったのである。一方では地方銀行としての地歩を確立した那須商業銀行は年間預入・引出が一六、〇〇〇円を超え、新しく大田原郵便局が預け入れ先となったのである。
 金田村公金預入先の昭和十三年にみられる特色は右のような意味で、大田原郵便局や第一銀行宇都宮支店が指定されたのであり、金田村信用販売購買利用組合は、農民を保護するためにつくられたものであるが、悪化する農家経済を救済する機関として、この恐慌期に台頭したものであり、大田原町信用組合と同質なものである。いま一つ新しく足利銀行大田原支店が登場しているが、これは、政府の県一行主義に基づく国策により、那須商業銀行が昭和十二年十一月二十五日にその権利などを譲渡して足利銀行大田原支店となったものである。
 その合同の様子については「那須商業銀行譲受」に次のように記されている。
 
   契約書
株式会社足利銀行(以下甲ト称ス)カ株式会社那須商業銀行(以下乙ト称ス)ノ営業ヲ譲受クルニ付甲乙両者間ニ契約スルコト左ノ如シ
第一条 乙ハ解散シテ其営業ヲ甲ニ譲渡シ同時ニ甲ハ乙ノ本支店跡ニ其支店又ハ出張所ヲ設置スルモノトス

第二条 乙ヨリ甲ニ譲渡スヘキ資産ハ乙カ昭和十二年八月十七日附ヲ以テ大蔵省ニ提出シタル乙ノ昭和十二年上期末決算貸対照表ニ基キ作成セル左記科目ノ内訳明細表ニ記載シアルモノトス

  (イ)現金
  (ロ)割引手形勘定
  (ハ)貸付金勘定
  (ニ)他店貸勘定
  (ホ)動産不動産勘定
但那須郡大田原町二千百七十番同二千百七十一番ニ宅地百五十一坪四勺乃同地上ニ存在スル建物(元下野中央銀行支店跡)以外ノ所有不動産ハ之ヲ除外ス

乙ヨリ甲ニ引継クヘキ負債ハ引継前日ニ於ケル預金勘定ト之ニ附帯スル累積未払利息及他店借勘定トス

第三条(以下第七条まで略す)
右契約ノ証トシテ本証ニ通ヲ作成シ甲乙各一通ヲ所有スルモノ也。
 昭和十二年十一月二十五日
                                株式会社足利銀行
                                 取締役頭取 田口庸三
                                株式会社那須商業銀行
                                 取締役頭取 増田新七

(「栃木県史 史料編・近現代七」)

  解散認可申請書
     株式会社 那須商業銀行
当行ノ解散ニ関シテハ昭和十三年十二月二十七日御内認可ヲ賜ハリ居リ候処右ニ関シ昭和十三年一月二十六日株主総会ノ決議ヲ経タルニ因リ解散致度候条御認可賜ハリ度此段及申請候也
 昭和十三年一月三十一日
                             栃木県那須郡大田原町五百十三番地
                                 株式会社那須商業銀行
                                  取締役頭取 増田新七
 大蔵大臣 賀屋興宣殿

(「栃木県史 史料編・近現代七」)

 昭和十七年十二月八日、政府の一県一行主義の方針に基づいて、宇都宮の農商無尽、栃木の富源無尽と足利無尽の三社は合併して、栃木無尽(株)を創立した。当時栃木無尽の那須郡内の出張所は、烏山町・大田原町・黒磯町・黒羽町・馬頭町におかれた。大田原出張所は、大田原町一、九八五番地(寺町)に置かれ、外務員が無尽契約をとって歩くという方法であったが、大田原町には足利銀行があり、大田原町信用組合があったので、その業績はあまり伸びなかったようである。「栃木相互銀行三十年史」の中で、
 
   業務内容
栃木無尽株式会社の創立当時の主要業務は、同業他社と同じように外務員の渉外活動により無尽契約を獲得し、未給付口掛金の増嵩を図り、中小企業経営者に無尽給付方式により資金を供給し、一方割当てられた国債、公社債の引受によって国策に協力することにあった。しかしながら、外務員の資質、モラルの低いことと、取引対象が中小企業と言うより零細企業が大部分であったことから、経営効率は低く、県内金融機関における地位も下位に属する業績であった。

と記されている。