戦後の金融機関

639 ~ 648
太平洋戦争の敗戦後、生産力の破壊と旧軍需会社への巨額の補償などから、激しいインフレーションが進行した。
 
日本銀行券の発行残高は日に日に膨脹し、終戦時の三〇三億円から六か月たらずの翌年二月には六一八億円と二倍の氾濫となった。

(「栃木相互銀行三十年史」)

 このインフレーションに対して、政府は「金融緊急措置令」を発し、インフレーションを抑制しようとした。これは昭和二十一年二月十七日現在で、金融機関の預金を一切封鎖し、これまで流通していた日銀券(旧円という)は三月二日までに金融機関に預け入れること、預け入れた預金は、一人一〇〇円をかぎって新しい日銀券(新円という)と交換し、他は全て封鎖預金とするというものであった。封鎖預金からの新円の引出しについては、世帯主三〇〇円、世帯員一人につき一〇〇円が許され、給与所得者は、五〇〇円を限って新円に切りかえ、支給されたのであるが、他は封鎖されたのである。

封鎖預金等設定申請書(「洋酒天国38」)

 このため、大田原町の足利銀行大田原支店、大田原郵便局、その他の金融機関は、新円切り替えを行ったのである。その結果、
 
金融緊急措置令施行直前の二月二十六日における銀行券発行残高六一八億円は旧銀行券預入最終日である三月十二日には一五二億円に激減した。

(「栃木相互銀行三十年史」)

 このように一応の成果を収めたインフレ対策ではあったが、政府財政が赤字であったことや、経済再建のための事業資金の引き出し、貸出しなどが増加したことなどから、再びインフレーションになって、日銀券の発行高は同二十二年一月には一、〇〇〇億円を超え、年度末には二、〇〇〇億円を超えるにいたった。このようなインフレーションは、復興金融公庫の設立(同二十二年一月二十五日)による融資によるものとはいえ、他方では重要産業部門に資金を供給することになり、傾斜生産方式がとられたのである。
 
インフレは遂に抑えることができず、昭和二十四年より国策も大きく転回が行われた。ドッジラインと呼ばれる安定計画、即ち健全な財政金融政策によって通貨価値を安定させる方策がとられた。

(「大田原信用金庫史」)

 その結果、インフレーションは収拾されたが、それは同時に安定恐慌をひきおこし、中小企業の倒産、失業を生じさせた。こうした不況は、一般に金詰まりとして受けとられたので、国民は消費を節約し、その分を貯蓄にまわしたのである。
 
このような情勢下にあって、市街地信用組合法により再発足した大田原町信用組合は、本来の使命である預金の吸収に懸命の努力をなし

(「大田原信用金庫史」)

 かくて、預金額一、二三二万円の業績をあげることができたのである。
 足利銀行大田原支店の預金額は、一〇、九〇七万円で、大田原町全体では一六、四四〇万円であった。一方貸付金は大田原町信用組合で六八五万円、足利銀行大田原支店で三、三七〇万円で、預貸率は、それぞれ五五パーセント、三三パーセントであった(第5表)。
第5表 大田原町金融
単位:千円(12月現在)
年度昭和24年昭和25年
機関預金貸出預金貸出
銀行109,07533,709164,17253,077
信用組合12,3256,85722,33715,842
農業協同組合10,2237,64913,23311,862
郵便局32,777――37,306――
164,40048,215237,04880,781
(「大田原町勢要覧」昭和26年)


足利銀行大田原支店

 大田原町のように戦災にあうこともなく、豊かな農村地帯を商圏にもって、資金源に比較的恵まれ、地元企業に資金を供給することの少ないところでは、地元金融機関によって吸収された預金は、中央の金融機関に供給され、戦後の復興と経済発展に使われることになったのである。
 したがって、栃木県無尽大田原出張所の無尽契約高も増加したものと思われる。また、このころ、大田原町に進出したのが茨城無尽であった。
 同二十五年朝鮮動乱が起り、「金へん」「糸へん」と呼ばれる特需によって、好景気がもたらされた。第5表のように銀行預金は五、五〇〇万円伸びて一六、四一七万円になり、貸出は一、九〇〇万円伸びて五、三〇七万円となった。大田原町信用組合も順調に伸びて、貸出は二倍強の一、五八四万円となった。銀行では、当座貸越が減って手形貸付や、割引手形がふえ、信用組合では証書貸付が減って手形貸付がふえるなど、企業の取引が増加したことを物語る状況があらわれた。
 このような好況は金融機関の整備発展を促した。同二十六年六月五日「相互銀行法」が成立し、栃木無尽と茨城無尽はそれぞれ相互銀行になり、茨城相互銀行大田原支店が、同二十七年五月十二日開設された。
 栃木相互銀行大田原支店の開設は、少し遅れて、同二十九年五月十五日であった。当時、栃木相互銀行の支店は足利支店、栃木支店、鹿沼支店のみで、大田原支店の開店は四番目で、真岡支店と同時に支店に昇格したのである。当時、内勤一名、外勤三名の計四名という小規模の支店であった。
 また、大田原町信用組合は同二十六年の「信用金庫法」の成立に伴って、同二十七年六月二十五日大田原町信用金庫に改組し、九月には国民金融公庫の代理業務を開始したのである。
 朝鮮動乱が同二十八年終結すると、需要が減少し、再び不況となった。しかし、同三十年に入って新しい生産技術が採用されるなど、設備投資が盛んに行われ、いわゆる「神武景気」となった。同三十一年の経済白書では、「もはや戦後ではない」とまでいわれるほど生産は向上し、三種の神器といわれた電気洗濯機・電気釜・電気冷蔵庫などが普及しはじめた。
 このような影響をうけて、大田原市内の金融は預金・貸出しともに伸び、金融機関の市内における発展的移動(進出)が行われた。足利銀行大田原支店は、戦前の那須商業銀行を引き継いで営業していたが、同三十二年七月十九日に、金灯籠の十字路(現 皇漢堂)に店舗を新築して移転した。そして、栃木相互銀行大田原支店は一、九八五番地の営業所より、足利銀行大田原支店跡を買収し、同年十二月三十日移転し、規模を拡大して営業を開始したのである。
 このように大田原市内における金融機関の整備が行われていたころ、金融情勢は大きくかわっていった。設備投資の増大によってもたらされる好況は、同三十二年にいたって、輸入が輸出を大きく上まわり、大幅な国際収支の赤字を出してしまったのである。そのため、三月と五月公定歩合の引き上げが行われて、金融の引締めが行われ、大田原市内の金融機関においても、貸し出しなどの窓口規制が行われ、企業の営業預金である当座預金が減少した。銀行にあっては同三十二年に七五・六パーセントまで減り、信用金庫にあっては同三十三年に減った(第6表)。いわゆる「鍋底不況」といわれるものであった。
第6表 当座預金(大田原市)
(単位:千円)
年代銀行増加率信用金庫増加率増加率
3055,221100.01,856100.057,077100.0
3149,94990.43,085166.253,03492.9
3241,77375.63,332179.545,10579.0
3346,74384.62,775149.649,51886.7
3456,869103.03,338179.860,207105.5
(昭和30年100とする増加率)
(「市勢要覧 大田原」1961)

 同三十三年六月金融の引き締めが解除されると、景気は再び回復しはじめ、同三十四年には神武景気以上の好景気となった。いわゆる「岩戸景気」である。
 このような景気の上昇期に、大田原町信用金庫は本店位置を現在地に移転し、規模を拡大して、営業を行った。同三十四年十二月二十日のことである。以後信用金庫は中小企業金融公庫の代理業務や、中小企業退職金共済事業団の代理業務を行い、預金・貸し出しとも順調に伸びていった(第7表)。
第7表 大田原信用金庫預金貸出状況
(期末残高 単位:千円)
年次預金増加率貸出金増加率
34415,062100.0370,619100.0
35553,219133.3443,713119.7
36731,692132.3559,894126.2
371,045,538142.9817,025145.9
381,371,585131.11,100,288134.7
391,813,544132.21,374,784124.9
402,184,064120.41,559,067113.4
412,733,586125.21,963,133125.9
423,330,629121.82,409,499122.7
433,965,384119.12,958,862122.8
(大田原信用金庫資料)

 市内銀行の預金・貸し出しも同三十三年以来急速に増加し、同四十年には五倍になった。対前年比伸び率では、同三十八年度が一番大きくなっており、次に多いのは同三十五年度である(第8表)。
第8表 大田原市銀行団の預金と貸出
(単位:千円)
年次預金増加率 %貸出増加率 %
331,322,297100951,462100
341,615,0681221,198,617125
352,069,2781281,685,620140
362,529.8721221,922,925114
373,172,0521252,345,521121
384,498,8931413,631,750154
395,470,5411214,270,048117
406.521,8701194,824,812112
(「市勢要覧 大田原」1963,1966)

 同三十五年には池田内閣によって所得倍増計画が発表され、企業の設備投資は増大し、生産は増加した。しかし、反面では輸入が増大し、国際収支が悪化したため、日銀の公定歩合が日歩一銭八厘から二銭に引きあげられ、金融の引き締めが行われたのである。これによって輸出が伸び、国際収支の均衡が取れたので、同三十七年十月より三十八年四月にかけて、公定歩合が引き下げられ、金融引き締めの緩和が行われた。銀行は貸し出しを積極的に行ったので、「好況なき繁栄」がもたらされたのである。同三十九年に入って、東京オリンピックが開かれたので、「オリンピック景気」ともいわれたのである。
 このような発展の中で、金融機関としての銀行は整備され、それは、たとえば栃木相互銀行大田原支店の行員数が、一二人(昭和三十三年)から一八人(同四十年)に増加したことでもうなずけるのである。
 一方、農家の金融機関として、重要な役割を果たしている農業協同組合の預金と貸し出しの状況は、銀行に比べ増加率はやや低いものの、着実に伸びていったのである(第9表)。
第9表 農業協同組合の預金と貸出の状況
(単位:千円)
年次預金増加率貸出金増加率
33271,166100.0226,881100.0
34336,885124.2280,021123.4
35396,803117.8299,184106.8
36492,586124.1318,262106.3
37632,377128.3372,202116.9
38742,931117.4431,118115.8
391,111,563149.6481,585111.7
401,399,923125.9587,000121.8
(「市勢要覧 大田原」1963,1966)

 また金融機関としての郵便貯金の状況をみると第10表のとおりで、着実に伸びている。
第10表 郵便貯金と払戻の状況
(単位:千円)
年次預金払戻
33335,261300,151
34397,791352,625
35445,431418,588
36493,864471,966
37565,268518,133
38652,680580,555
(「市勢要覧 大田原」1963,1966)

 同四十年十月から五七か月に及ぶ好況に入った。いわゆる「いざなぎ景気」である。市内における同四十年の銀行預金は六五二、一八七万円であったが、同四十五年には一・八六倍の一、二一五、七〇四万円になり、同四十七年には更に増加して、一、九二九、八七六万円になった。一方貸出金は同四十年には四八二、四八一万円であったものが、同四十五年には一・六九倍の八一七、九四九万円となり、更に同四十七年には一、三〇六、六〇七万円になった。
 このような金融の伸びを支えたのは、大田原市に誘致された企業が、生産を増大させたことは勿論であるが、市内商店などが店舗を改善し、近代化をすすめたことによるものである。
 この間、市内金融機関も次第に整備され、大田原郵便局は同四十二年十二月四日より新富一丁目(大手町)に移り、同四十年十二月一日に城山一丁目(寺町)に開店していた西那須野信用組合大田原支店が、同四十六年五月二十五日に現在地中央一丁目(栄町)に移り、茨城相互銀行大田原支店は、東京都清瀬市に配置転換のため、同四十七年十月五日閉店になったのである。この茨城相互銀行大田原支店の閉店については、「広報 おおたわら」で次のように報じている。
 
 収納代理金融機関のおしらせ
今度、茨城相互銀行より諸般の都合によって、十月五日をもって大田原支店が閉鎖される旨の通知がありました。
 閉鎖後の業務は、栃木相互銀行が引きついで行うことになっていますので、おまちがいのないようにして下さい。

(「広報 おおたわら」 二一二号)

 大田原信用金庫についてみると、同四十年代は市外への拡張期であった。同三十七年十二月十五日に黒磯支店を出していた大田原信用金庫は、同四十年六月十八日西那須野支店を開設し、同四十六年十二月十三日には黒田原支店、同五十四年九月十一日には東那須野支店を開設して、金融網を整備した。大田原市内では、同五十一年七月二十八日野崎支店を開いたのである。
 地方銀行である足利銀行大田原支店の住吉町(荒町)への移転は、同五十三年七月十日であった。