郷倉

657 ~ 658
以上のような金融機関のほかに、米穀など現物をもって農家を救済する郷倉の制度が戦前にみられた。延宝三年(一六七五)に天領に設けられたのをその始まりとし、天明の飢饉には、非常に重要な役割をしたとのことであり、明治になってもこの郷倉の制度は続けられた。親園村では明治十二年(一八七九)「凶荒予備蓄積規約」がつくられ、それによって運営されているのであるが、その様子については、川島武夫著「親園の風土と歴史」の中で次のように述べている。
 
この備荒貯穀の遺制は明治期に入るとすでに近世よりは内容的に変質し、毎年定期的に基本貯穀を零細農民に貸し出し、その返済の際得る利米を売却し、部落の重要な財政収入としていたのである。これが地主制が確立してくると、この慣行はいよいよ定着し、凶年に備えるというよりは、年々の零細農民の再生産に重要な役割を果たし、彼らの生命の綱となり、この郷倉の制は明治期以降は、無尽・頼母子講的性格へと変質していくのである。


郷倉米貸出帳(川島武夫氏提供)

 この制度は昭和初期まで続き、米穀の配給制度が実施されるようになってくると、金銭扱いとなって、その使命が終るのである。
 このような郷倉に対し、新しい農村の金融を受けもったのが、信用組合である。明治二十七年九月二十七日ドイツ農村信用組合型をとり入れた、品川信用組合が、湯津上村につくられてから、その意義が認識されるようになった。そして、同三十年七月佐久山信用組合、同三十一年三月大田原信用組合がつくられたのである。しかし、これら二つの信用組合の運営がどのように行われたかは、現在のところ不明である。