散髪廃刀

662 ~ 663
ところで文明開化とは、この明治初年ごろの一連の西欧化・近代化の現象をいうが、富国強兵とそのための殖産興業政策が積極的に推進され、先進欧米列強の科学技術などが急速に導入されていった。それらはまた衣食住に関連する風俗習慣や社会生活全般にも波及していったのである。工場制機械工業の拡張とともに外国商品の模造品も漸くこう間で使用されてゆくようになるのである。
 「半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」、「総髪頭をたたいてみれば王政復古の音がする」、「ざんぎり(散切り)頭をたたいてみれば文明開化の音がする」などと歌われたように、「阿久津モト文書」には、明治四年(一八七一)八月「散髪脱剣勝手次第ノ布達アリテヨリ、髪ヲ断チ剣ヲ脱スルモノ陸続タリ」と記されている。さらに同九年には「廃刀令」が通達されて、旧態は急速に一掃されてゆくのである。
 そして服装面では、ただ当初はこのような、洋服・靴・帽子などの着用は軍人・巡査・官吏などに見られるのみであって、その他あらゆる面で和洋混交であった。
 また、牛乳やビール・パン・牛肉類の飲食なども一部の人士に限られ、煉瓦造りの建物やガス灯の明りも、当市域には無縁の代物であった。マッチや石油ランプの使用はともかく、当分は東京は銀座「日本橋近辺の文明開化」といわれ、東京から大中都市へ、そして近郷近在へと広がるのには相応の時間を必要としたのである。
 むろん、佐久山に「明治六年人力車一台が入ッテ人目ヲヒク」(「佐久山町郷土誌資料」)というように、その他電信・電話・乗合馬車・自転車・鉄道などの恩恵に浴するのも、当地ではずっと以降のことで、その他の事項と共に関係諸編各章節の記述を参照されたい。