この戦役に従軍した県士族大橋康(大田原宿六七番地(現 城山二~六)居住、安政二年乙卯七月十七日生)の老父から、県宛に提出された「御扶助願」には次のような添書がある。
徴募巡査志願ニテ 明治十年六月六日生地出発 新撰旅団ヱ編入 第一大隊第四中隊第八分隊ニテ同年七月東京出発 鹿児島ヱ出張 同年十月鎮静ニ付凱旋途中虎列剌(コレラ)病ニ罹リ 相州横須賀病院ニ入リ 同十月下旬死去候旨 本人朋友ヨリ郵報アリ
(大田原・第八四)
また同「大田原・第八四」によると、同十二年七月には大田原戸長から「虎列剌病流行ニ付 大田原光真寺ヲ仮用シ避病院ニ定メ」との届が郡役所に提出された。そして八月には字赤堀西三五八四番、増田淳正ほか二〇人の共有墓地を、「該病ニ罹リ死亡人有之候時者(ハ)前記之墓地ヘ埋葬シ 及ビ汚物焼棄ノ場トモ同所ニ相定メ」ると郡長宛に届けられている。
なお、西南戦争では大田原で二名、佐久山・野崎両地区で各一名の計四名の戦死戦病死者があった(「平和の塔記念誌」)。