政治的動向と政教分離

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すでに明治七年(一八七四)板垣退助らによって、「民撰議院設立の建白」が政府に提出されたのである。この藩閥打破、国会開設を要求する、言論による反政府的自由民権運動は、武力反抗に止めをさした前出の西南戦争以後にいよいよ高まってくるのである。同十四年(一八八一)には一〇年後を約束した「国会開設の詔勅」が出され、以後自由党(総理板垣退助)、立憲改進党(総理大隈重信)、立憲帝政党(党首福地源一郎)、と政党が相次いで結成されたのである。同十七年当時の栃木県令は福島県令を兼ねた三島通庸であった。彼の政策に反発した県自由党員が、県庁開庁式にダイナマイトで要人などを暗殺しようとして、未然に発覚した茨城県「加波山事件」があったのである。それと前後した国内での大同団結運動などの政治的運動は、政府の保安条例等による対応策で、一応鎮静化するのである。
 上野―宇都宮間の鉄道直通列車が運行されてちょうど一年後の同十九年十月一日に、宇都宮―那須(現 西那須野)間が開通し、十二月一日には黒磯まで延長されたのである。
 ようやく同二十二年(一八八九)二月十一日、紀元節当日(現在建国の日)を記念して、天皇から時の黒田清隆首相に授与する礼式で「大日本帝国憲法」が発布されたのである。第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に始まる明治憲法は、翌二十三年(一八九〇)十一月二十九日、第一回帝国議会開会日に施行され、新憲法発効の昭和二十二年五月三日まで存続したのである。旧憲法施行の同二十三年十月三十日には、「教育ニ関スル勅語」もかん発されて、太平洋戦争終結までの国民の精神生活面を強く規制したのである。この年四月一日から市制・町村制が全国に逐次実施となり、旧宿・村などが統合され、後でやがて市域となる大田原町・佐久山町・金田村・親園村・野崎村などが成立したのである。
 これら前記に関連した当地住民の反響をつまびらかにする記録は見当らない。ただ第一回衆議院総選挙を目前にして談論風発したであろう前年の史料と、同様に教育の政治的中立性を説く同二十七年(一八九四)のものを次に併記しておく。
 
   内訓第一五八号
凡ソ学校職員生徒学術ノ講談演説ヲ為ス節現在ノ政務ニ関スル事項ノ可否ヲ討論ズル等ノ儀ハ不相成ノ筈ニ候条心得違ノ者無キ様各学校ヘ内訓方取計フベシ
  明治廿二年十月十六日

                                栃木県那須郡長 安藤小次郎
   大田原町長 阿久津忠武殿
(大田原・第五一)

     訓示第八号
                                       町村役場
                                        小学校
一 教育ハ政論ノ外ニ特立スベキ者ニシテ殊ニ政党ノ争ハ普通教育ヲ受クル未成年者ノ脳髄ニ感染セシムベカラズ 故ニ学校教員ハ政論ニ干預シ政事上ノ競争ヲ幇助誘導スルヲ許サズ 今度議員選挙ノ事アラントスルニ当リ学校教員ノ職ヲ帯ル者ハ其身固有ノ選挙権ヲ行フノ外何等ノ党派ニ向テモ直接ニ間接ニ選挙ノ競争ニ関係スベカラズ

一 公立学校教員ニシテ議員被選挙人タラントスルモノハ其志望ヲ表白スルト同時ニ教員ノ職ヲ辞スベシ

  右訓示ス
    明治廿七年二月一日
                                栃木県那須郡長 安藤小次郎
(大田原・第九六)