大田原町の帰還兵

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この日清戦争は翌明治二十八年(一八九五)四月十七日の講和条約「下関条約」の調印で、日本が清国から台湾・遼東半島や多額の賠償金を獲得するなどの勝利によって終ったのである。もっとも同月二十三日には、露・独・仏の三国干渉によって、半島は返還することになったが、いずれにしてもその後、歓迎祝賀の歓呼の波にのって凱旋部隊が続々帰国したのである。その状況を伝える「帰郷兵状況報告書」が、大田原町長から那須郡長宛に出されているので次に記す。
 
     帰郷兵状況報告
一 六月九日第一師団野戦師団司令部留守師団司令部留守歩兵第一第二旅団司令部野戦歩兵第一第二旅団司令部歩兵第一連隊歩兵第二連隊歩兵第十五連隊騎兵第一大隊第一第二野戦病院後備歩兵第二連隊臨時輜重兵編成換ノ人馬兵站司令部員復員解散ノ令達郡役所ヨリ到達セシヲ以テ直チニ掲示ヲナセリ

一 六月十二日第一師団歩兵第三連隊野戦砲兵第一連隊工兵第一大隊大小架橋縦列野戦電信隊衛生隊野戦砲廠砲廠監視隊臨時徒歩砲兵第二連隊臨時攻城工廠第二縦列復員解散ノ令達郡役所ヨリ到達セシヲ以テ直チニ掲示ヲナセリ

一 六月十八日第一師団後備工兵第一中隊輜重兵第一大隊弾薬大隊衛生予備員衛生予備廠患者輸送部臨時攻城砲廠第二縦列復員解散ノ令達郡役所ヨリ到達セシヲ以テ直チニ掲示ヲナセリ

一 六月二十五日第一師団野戦工兵廠輜重監視隊兵站糧食縦列仝上

一 帰郷者ハ総計八名ニシテ悉ク予定ノ日ニ帰町セリ

一 帰郷者ハ皆着実ニシテ不正ノ所為ナシ

一 帰郷者ハ一般健全ニシテ疾病ニ罹リタルモノナシ

     右及報告候也
    明治二十八年七月十日
                                   大田原町長 若色良譲
   那須郡長 長井高明殿
(大田原・第五七)