箒川列車転落事故

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明治三十二年(一八九九)十月七日午後五時ごろ、当時は日本鉄道会社が経営の私鉄東北線下り列車が、箒川鉄橋から転落した惨事の経緯については別章に詳しい。ここでは、当時の新聞報道を知る上でも、翌日の「下野新聞」号外(栃木県立図書館所蔵、句読点は筆者記入)のみを転載しておく。
 
該場所は南は塩谷郡泉村大字山田松原山と称せる岩層より成れる丘陵を負ひ、北は那須郡野崎村大字薄葉にして箒川は中央にありて西より東に流れ急流として知られ、之に架せる鉄橋は長さ四百七十尺水面より高き事十三尺に達せり。而して線路は松原山の十数丈高き岩層を切開き直に鉄橋に通ずるものにて岩層中には如何なる風雨も其の害を及ぼさざるも、一度之を通り抜けて鉄橋に至るや四望廣濶、若し一度風雨の変に逢はば多少の被害なきを保せざりしなり。同地の地位は斯くの如くなるか。斯くて東京上野発福島行下り列車の各駅を通過し無事の間に矢板駅を過ぎ松原山の切開線路を通過するや、左らでも怒号せる風雨は一層の猛威を加ひて大旋風も斯くやあらんづ、凄まじき勢もて車両も煽り汽関車及接続貨車十両は正に鉄橋の過半を過ぎ、貨車に接続せる客車八両の正に鉄橋半ばに達するや、第一なる客車は風雨の翻揺する所となり貨車との連鎖絶ち切れしと思ふ間もなく転倒し、ガードの設けなかりし為め橋の東方に墜して粉微塵となり、之に続ける七台の客車は其の勢に連れて瞬間もあらせず悉く激流中に陥落したるは実に空前の珍事にして意外の事なれば、人々アレヨと叫ぶ間もなく或者は骨砕けて死し或者は幸に九死に一生を得、其の多くは客車と共に微塵となりしや、若しくは流失中溺死せしや其の生死だも知らざる未曽有の悲惨事と見るに至りしなり、時は丁度午后五時頃なりしと。


箒川列車転覆事件村民による慰霊祭(「各地災害図会」益子佳久氏提供)

     客車破損の惨状
転覆の位置にありしレールはそりかへり勿論トロッコの通行も為し難きまでに至りしが、転覆せる客車の河中に没せるさまは一見悚然たる計りにて、八両中四台の客車は粉微塵に砕かれ其の細片をも認めず急流の流し去る所となりしが、他の四台は其全部を三四片に砕かれ激流中に埋まりたるも物すごく、特に其の客車の一両は殆んど川の中央なる寄洲に転落すると共に逆立し、其のまま原形を存せるなど誰か之を見て慄然として恐れ寒からざるも能く肌に粟を生ぜざるべき。加ふるに風狂ひ天地怒号するかの如く黒闇々たる闇夜橋上に立ち、僅に星明りに其の破壊の状を見るべく実地に臨みたる者に取りては惨絶凄絶鬼気啾々として満身を襲ふかの感あるも故なきに非ず(以下略)。

(「下野新聞」号外、明治三二年一〇月八日付 栃木県立図書館所蔵)